生と死の混ざり合う、屋久島の森で。

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久々の一人旅は、直前に決行をきめた屋久島。

もう10年くらい前に読んだ田口ランディさんの「ひかりのあめふるしま屋久島 」を再読したことと、昨年屋久島に行った若い友人の素敵な写真がきっかけで、今年行きたい!と思っていたのだった。

それにしたって10年くらい山歩きをしていない私、体力は落ちてるだろうし、
トレッキングシューズはとっくに処分したし、古いレインウエアはあるとしても、
大丈夫なのかなー

そもそも飛行機飛ばないとか、フェリー欠航とか、行けない時にはとにかく行けないからと
言われるし、大丈夫なのかなー
そして、私、ものすごい方向音痴だけど大丈夫なのかなー

とびくびくしてましたが(私けっこうこわがり…)
結果的に、トレッキングシューズは直前に入手でき、
飛行機は無事飛び、
方向音痴は直らなかったけど、ひとりで大丈夫でした。
数年ぶりのすごい筋肉痛になったけれどね。

スケジュールがあんまりなく、縄文杉は早々に諦め、
初日は先週までの大雨で白谷雲水峡への道は通行止め、ということで、教えてもらったヤクスギランドへ。
二日目は、無事通行止めが解除になり、もののけの森と言われる白谷雲水峡へ。

ま、旅行記みたいなことは、たくさんの方が素敵に書いているので、
私はそのへんは省略(笑)

いやあ、涙というよりは、笑いが出てくる風景だった、すごすぎて。

水と苔の森。
そこに立っている木にも、自然に倒れた木にも、切り倒された木にも、区別なく苔が覆い、
新しい植物がじゃんじゃん種を落とし、そこから芽を出し、絡み合い、混じって生きている。
苔はまるで動物の毛皮のようにふわふわで、あらゆる種類の混じった一体が、ひとつのいきものみたいな気配。もう動物なのか植物なのかよくわからないよ!
そこは、どこまでが生で、どこからが死なのか判然としない世界で、
しかも、どこまでが個で、どこからが他なのかも、全く判然としない。
生死にも個の境界にも静と動にも、どうやら興味のなさそうな生き物達が、ただ思うままに生きていて、
共生なんていうちっぽけな価値観じゃなくて、これが、やつらの当たり前なんだよなあと感じる。
いつも水の音がして、常に湿っていて、みんな水の恩恵を受けている。
私も、どこでも何度も湧き水を飲んだ。これがまた、何よりも美味しくて、生き返るよう。

木が信仰の対象であった時代から、乱伐された時代から、保護し共生しようという時代へ、
人間の考えは時代とともに移っていくけれど、
この森はずっと、別に怒りもせず哀しみもせず喜びもせず、陳腐な擬人化を許さずに、
ただただ死を飲み込みながら生きているだけなんだなあ。

そこで私は、なんだか言葉にできる感想が出て来なかった。(今さんざん書いているけど)
とてつもない気持ち良さの中で、吐き気みたいにずっと感じる強いエネルギーを、どうしようかなーと思いながら、どうにもできずに帰ってきた。

何かが自分のなかで変わるとか変わらないとか、ここに来れたことに意味があったかどうかなんて、どうでもいいな。
あの森の空気と水を飲み込んで、私はこの東京砂漠でも苔生やして生きていく。

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