意味を捨てる旅

今回は、なんだかいつもと違う。
先週帰って来た沖縄の旅が、全然消化できない。
とってもクローズドな旅だった。

沖縄二日目の久高島入りの夜、高熱を出した。
島に着いた瞬間からいろいろあったのだけれど(笑)熱は極めつけ、というかんじだった。
神様の島でこんなことが起こると、ついつい意味とか必然とか神様のメッセージとか考えてしまうのだけれど、なぜか今回はそれがすごくばかばかしいことのように思えた。
意味とかどーでもいいから、ひたすら寝て下げるだけだ!と気合いを入れて寝て(笑)微熱程度に戻った体で翌日島中を歩いた。
ゆっくりしか歩けないだるい体に映る海は美しくて、風は優しくて、時々号泣しながら、一人きりで歩いた。
号泣の意味も、考えるのはばからしい。
ただ、あそこを歩いたらどうしても泣けるのだ。

その後那覇に戻っても、夜になると熱が上がり、朝になると下がる毎日、
精力的に動くなんて全然出来ず、ゆっくり歩いては、巡り会う御嶽や神社にご挨拶をするだけ。

そして、数年ぶりにおばあに会いに行く。
おばあから初めて聴いた、会った事のないおじいの話、彼の戦争で狂った人生のこと、それを受け止めきれなかったらしい父の事、一族にじわーっと残る哀しみ。
多分その哀しみの一部は、私の体内に昔っからある、説明しようのない哀しみと一致する気がする。
私に連なる人の感情って、もしかしたら、会った事すらなくても、私の中にも残るのかもしれないな。
その人たちのこと、なんにも知らなかったな、知ろうとしなかったなあ。

帰って来てからは気管支炎まで発展して、なんじゃこりゃって感じ。
体調崩して帰ってくるなんて、何しに行ったのかわからん。
この旅の意味が全然わからん!
でも、なんかそれを良しとしたいんだ。
分かった気になって、メッセージ受け取った気になって、簡単に終わらせたくない。

静かな久高島の旅と、人生の最終盤でようやく口をひらいたおばあの話。
全部が体の中で混ぜ合わさって、静かに発酵するまで、待つしかないみたい。

おばあの家からバスで足を伸ばして、勝連城の海

久高島で一枚だけ、写真を撮らせてもらった。

那覇の市場で、150円のお弁当。愛がつまってる。


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