リレーやバトンの話、その後。「拡散」から「深化」へ

先日書いた、「リレーやバトンに乗れないよ」というぼやきに、たくさんコメントやメッセージをもらいました。(主にFacebookで)

「私も同感」という人、「自分ルールで楽しんじゃえばいいんだ」という人、「暇だから」という人、「やってみたけどもやもやした」という人(ざっくり分類でごめんなさい。実際はもっと丁寧に、それぞれの言葉で語ってくれてすごく面白かった!)、一方からだけじゃない意見が出るこの手のテーマっておもしろいな。もちろん私、議論するつもり全然なくて、ぼやいただけなんだけど。

あともう一つ、とても驚いたのは、すごく久しぶりの方々から何人も、このことについてこっそりメッセージをいただいたことでした。
「SNSには書けない。でも本音を伝えたい。」
というメッセージでした。

このことから改めて気づいたのは、どんな場所にも、楽しむ人がいる一方で楽しめない人がいるという当たり前のこと。これが人間界のバランスなんだな。
学校でもイベントでも職場でも、その波に乗れる人がいて、乗れない人、乗りたくない人がいる。盛り上がれば上がるほど、ついていけない、いかない人がいて、その人たちは、盛り上がっているところに水を差したくないから、多くの場合口をつぐんでしまう。
口に出した人は、「そんな難しいこと考えなくても」「せっかく楽しんでるのに」といわれがちで、結果、遠目からは大きな流れしか目に入らない。
自由なはずのSNSの中にもおんなじような同調圧力があって、小さな声のひとたちは居心地が悪くなる。

強調したいのは、楽しんでいる人が問題なのではないということ。
楽しんでいる人たちを制限し始めたらそれは大問題で、基本的には誰もが自由に自分のやりたいように(人の権利を侵害しないように)楽しめばいいのだと思う。

でも。
言えない。という人が一定数いる、というのはどの場所でも覚えておきたい。
きっと私もあちこちでやらかしているはず。楽しんでほしいと思っている舞台でも、イベントでも、ものづくりの最中でも。今、参加していない人、黙っている人はどんな状況なんだろう、ということには心は寄せておかねば、と思いました。

もう一つ、この手のバトンでやっぱり私が引っかかり続けるのは、この発端が、どんなに意義のあるテーマを掲げていても、やっぱり拡散ゲームだということです。断りにくいシステムを作って、人の心理を巧みに突いた商売なんかと、方向性が一緒。そこに、善意の人を拡散ゲームに加担させる。個人が発信する素敵な内容をそこに利用する。
私は、一参加者として楽しんでいる人にではなくて、その仕掛けを拡散していこうとする人たちに、いつも大きな違和感を感じます。
今回のゲームも、この非常時に、その情報ばかりで埋まるということは、拡散人数を考えれば容易に予想できることで、それをわざわざ仕掛けることが善意とは、とても思えないのです。

例えば政治のことを考えるとき、社会のあり方を考えるとき、「バトン的なもの」にいつでも飲み込まれる危機意識はちゃんと感じながら、その時々で「参加する・しない・どうやって参加するか」を考えたい。

いちいち楽しめない自分、いちいち考える自分がほんとめんどくさいなーと思って、我ながら嫌になりながら前回の投稿をしたけど、そこにどちらの側からも建設的で本音のコメントをいただけて嬉しかったです。社会はいつでもこういう多様性がある方がいいです。
楽しんでいる人を傷つけたり水を差す意図はないということを、ちゃんと受け止めてくださった「楽しむ派」の人たちのことも、私は大好きです。

書きながらだんだん気づいたけど、私は「拡散」より「深化」に興味があるんだな。
自分の書いたものややっていることが、手の届かないところまで広がっていくことじゃなくて、それをちゃんと受け止めて深めてくれる人たちがいること。自分の視野を一段階広げてくれる人たちがいること、賛成論だけじゃない世界が見えること、が多分「面白い」んだな。それは、「リアルな世界」(SNSであっても、リアルなつながりの人たちしかいない世界)の面白さだと思う。

これは、情報拡散が必要となる自分の仕事には全然向いていない資質だということは理解します(笑)

でも、私が手渡したいのは、多分、そういうことです。

いろいろな気づきをいただいて、ありがとうございます!


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