珈琲とおしゃべりと

インタビュー

Vol.4 つくること、残すこと、伝えること 沖縄の作曲家:東外門清順さん

沖縄で作曲活動をしている東外門清順(あがりふかじょうせいじゅん)さんにお話をうかがいました。沖縄で人気のお笑いキャラクター「護得久栄昇」さんに楽曲を書き下ろしている作曲家で、普段はテレビ放送局で働きながらペンネームで作曲活動をしています。そして実はこの方、シモシュの音楽大学時代の同級生。今回、私がお話をお聞きしたいと思ったのは、昨年発表された「椿油とワンピース」という曲がとても印象に残って頭から離れなくなったからでした。2021年10月下旬、ようやく緊急事態宣言が解除され、個人的に沖縄の親戚を訪ねた折に、東外門さんにお会いすることができました。 顔出しNGの東外門さん その日の那覇の気温は26度。想像よりも爽やかな気候で、夕方会社から出てきた東外門さんに「あまり暑くないですね」というと、「暑くないどころか、寒いよー、冬が来たかと思うよー」と半袖のかりゆしウエアから出た腕をさすりながら言いました。石垣島出身の東外門さんの温度感にすっかり心はほぐれて、お話がはじまりました。 話し手:東外門清順(あがりふかじょう せいじゅん)聞き手:城間優子(X-jam) 「音楽の先生になるんだろうな」と思っていた ———今、会社ではどんなお仕事をされているんですか? 6月までは報道にいたんですが、今は、編成の仕事と、ガラじゃないんですけど、インターネットを活用した次世代メディアの準備をしています。その合間を縫って曲を作っているので、朝4時頃起きて曲を書いて、子ども達の朝ごはんと弁当担当は僕だから5時半くらいから作り始めて会社に行く。あとは土日を使って作る感じですね。もう、作りたい曲が頭の中にたくさんあって止まらないのよ。 ———ずっと音楽を続けていたんですか? 埼玉の音楽短期大学でまっちゃん(シモシュのこと)と出会ったときは、僕の専攻はユーフォニウムという楽器だったんですけど、入ってみると優秀な人がいっぱいいるわけ。それで演奏の才能はないなと思って、その後沖縄県立芸大に入り直して民族音楽の研究の方に行ったら、それがすごく自分には合っていました。卒業するときに、なんとなく「学校の先生になるんだろうな」と思っていたんだけど、友達が放送局を受けるのに付き合って受けたら、受かってしまって入社しました。音楽をやっていたのに最初警察担当になって。その後はいたずら程度に曲は作っていたけど、そんなにたくさんは作っていなかったですね。 仕事に追われる中、番組の曲を作ったりはしていたものの、再び本格的に曲を作るきっかけになったのが、2017年、沖縄で人気のお笑い芸人が民謡歌手に扮した「護得久栄昇」さんと会い、楽曲を提供したことでした。なかでも「れもんけーき節」は、デモ曲を関係者に聴かせたときには「みんなぽかーんとしていた」といいますが(多分聴けば理由がわかります)沖縄のみならず、本土のFMでも取り上げられる人気曲に。護得久組の一員として、どんどん曲を作るようになります。そして2020年6月23日、YouTubeで「椿油とワンピース」が公開されました。 「椿油とワンピース」はこんな出だしで始まります。 僕の家の隣に住んでる白髪のオバーの話ですオバーはたぶん、とってもオバーでコンクリ瓦の家の裏狭くてちっちゃい裏座の部屋に 一人ぼっちで住んでるよオバーは病気で目が見えないから、僕がお使い係です この曲を聴いたとき、シンプルで懐かしいメロディとともに、自分の祖母の姿や匂いまで瞬時に思い出されました。誰かの記憶の断片に歌を通して触れることによって、自分の眠っていた記憶が呼び起こされる、不思議な歌だと思いました。 でも、コミックソングを精力的に発表する中、あえて違ったテイストの曲を書いたのはどうしてなのでしょうか。 僕らの世代が知ってる記憶を残したい もちろんお笑いの曲はこれからも作りたいし、楽しいけど、それだけではなくパーソナルな部分も歌にしてみたいと思っていたんです。小さい頃、近所の目の見えないオバーの買い物を手伝っていたことを歌にしたいなと思って、一番の歌詞はさーっと出てきたんですが、完成しないままで、その後、オバーの葬式の時のイメージと、母の戦争体験を聞いていた記憶とかを組み合わせてできたのがあの曲です。最後がなかなか決まらなかった時に、オバーの印象で象徴的な「椿油とワンピース」というキーワードが出てきて、ポッとはまったの。 曲に出てくるオバーは明治生まれで、出かける時は椿油で髪を綺麗にして、いっちょううらのハイカラなワンピースを着て強いタバコをふかしてる、本当に昔ながらの沖縄のオバーで、今そんなオバーはいないですよ。あの、タバコと椿油とオバーの体臭の混じったような匂いの記憶を持っているのは、僕らの世代が最後かもしれないから、そういう記憶は残したいなあと思った。 「こんな歌詞ができた」と護得久組に聞かせたら、「すごくいい」と言ってくれて、護得久組で出してみることになりました。どうしても沖縄慰霊の日(注:6月23日。沖縄での地上戦が終わった日であり、沖縄戦犠牲者の霊を慰め平和を願う沖縄の休日)に間に合わせたいと思って、僕が歌った仮の歌のまま、子供の声に変換してもらって、これでいいんじゃない?って出しました。 同世代の人はこれを聴いてすごく懐かしいと言ってくれますね。今の若い人はピンとこないかもしれないけど、昔のオバーの匂いが立ち上がってくるような曲になっていたらいいなと思います。 https://youtu.be/Kqb4zDlc860 戦争体験者の子どもが作った非戦の歌 その後、東外門さんは、母から聞いた戦争体験を元にした「南洋哀歌〜ゆきちゃんの場合〜」という曲を、沖縄のクラシック音楽ユニット「おから」に書き下ろしました。少女だった母の壮絶な体験を静かに歌うこの曲には、スローガンのような強いメッセージはありません。 子どもの頃から、僕はお袋が時々台所で「お父さん、お母さん」ってまるで子どもみたいに泣くのを見ていたんですよ。でもその頃の僕には何もできないし、よくわかっていなかった。数年前に母が入院していたとき、病室で昔のことを語りだしたことがあって、「ちょっと待って!」って慌ててノートパソコンを持ち込んで書きつけました。 お袋は、サイパンで集団自決で両親も妹と弟も全員亡くして、一人生き残って、収容所に連れて行かれた後、引き揚げ船で沖縄に帰ってきた。そのことを知った叔父さんが、2年半かけて探してくれて、別の家の養女になっていた母を見つけ出し、引き取って育ててくれたんです。 それを聞いて、最初はドキュメンタリーにしたいと思ったんだけど、身内のことをドキュメンタリーにするのはすごく難しい。結局作れないままで、今回コロナで自宅待機になって、時間がたっぷりあった時に、いよいよ作らないと、と思って、歌にしようと思いました。 自分が親になってみると、その時のお袋の姿が自分と重なるわけですよ。 僕らの世代は、家族に戦争を体験した人がいたけど、今の人にはそういうリアリティはない。たまたま自分は、戦争体験を持つ親の話を聞いて、それを自分で表現できる手段を与えてもらってるわけだから、何か形にしないといけないと思ったんです。だから、この曲は、戦争体験者の子供がつくった非戦の歌です。 https://youtu.be/GXTYrxNVHpU この動画の終わりに、作者のメッセージの中で「8歳のゆきちゃん(母)を慰めたい」と東外門さんは書いています。母の癒えない心の傷を見てきたからこそ、強い反戦歌ではなく、あえて優しい歌になったのでしょう。だからこそ、忘れてはいけないことを次の世代に伝える力があるように思いました。二つの曲は、貴重な時代の声を歌にのせた、今の時代のわらべうたのように聞こえます。 音楽の神様に祝福されるということ ———いろんな人に曲を書き下ろして、活躍の場が広がっていますね。 自分が演奏できないのが良かったんだと思います。多分、自分で全部作って演奏できたら、誰にも頼む必要がないから、そこまで広がらなかったかもしれないですね。僕は、売れたいとかは全然思わない。でも、曲が生まれる理由って絶対あるはずで、生まれた曲は一つの人格みたいに一人歩きするものだと思うから、すぐには世に出なくても、縁があったときに誰かに歌ってもらえたらうれしい。不思議とご縁がつながって、歌ってほしいなと思う人に出会ったりするんです。本当に自分が演奏できなくて良かったなと思うし、演奏できる人のことを尊敬していますよ。 ———演奏する側にならなかった挫折感はなかったですか? 挫折はありましたよ。ものすごくある。学生時代、僕が1週間かけて練習したことを1日で出来る人がいて、全てにおいてスピードが違う。でもすごい人たちに出会えて、早めに諦めがついたのは、挫折だけど悪いことじゃないと思います。今も曲を作って喜んでくれる人がいるから、音楽を長く続けること自体は挫折していないわけだし。だからこそ、プロで続けていける人はすごいなと思うし、かっこいいなと思う。 ———その、「プロ」というのはどういう人のことだと思いますか? 音楽が経済的な基盤になっているかどうか、というのが基本だとは思うんですけど、今はそれだけじゃないですよね。小椋佳さんとか、すごく音楽に長けているのに銀行員をしている人もいるから、線引きは難しいし、答えはないと思う。ただ自分の中であるのは、「作り続けられる人」かな。どの状況でも作らざるを得なくて、作り続けるのがプロだと思う。アマチュアは作りたい時に作る。プロは、理由なんかなくても何十年も生み出し続けられる人なんだと思います。 僕は、音楽の神様って確かにいると思うんです。神様に祝福される人と、そうじゃない人がいる。でも、神様は祝福もするけど苦しみも与える。作り続けないといけないという宿命からは逃れられない。 池間島のツカサ(注:島の神事を司る巫女のような存在)の話を聞いたことがあるんですが、ツカサになった人は、自分が受け継ぐことは知らず、ある日夢に神様が出てきて、次の日御嶽(注:うたき。沖縄独特の島の聖域、拝所)に行ったら、その人がいたんだって。「この人が夢に出てきた」って周りに言ったら「あんたが後継だね」と言われる。だけどそれから頭の中でずーっと神様の指示があるから、嫌になって逃げようと思ったんだって。でも神様に「あんたは選ばれた人だから、逃がさんよ、許さんよ」と言われて、それが運命なんだって諦めてツカサを受け継いだという話なんです。 だから、音楽の神様に祝福されるということは、与えるけど、奪う。それがセットになっているんだと思う。だからプロの苦しみはアマチュアにはわからない。その中で続けていけるのがプロだと思う。 自分は全然そんなのなくて、気楽にやってるだけだから、その大変さは本当にはわからないですよ。 おもしろがることから物事は生まれる 僕は演奏するより「これやったらおもしろそう」「この人に声かけたらおもしろそう」というアイディアがどんどん出る方で、それが実現するのがワクワクするんです。テレビの仕事も同じで、企画は僕が立てて、形にするのはその道のプロがしっかりやってくれるから安心して任せられる。自分がプレイヤーになるよりは、他の人にバトンを渡す方が向いてるなと思う。僕が0から1を渡した後は、後はプロがこんなふうにしようって話を広げて1から10にしてくれるから、これが楽しくてしょうがない。全部自分でやろうとしないで、役割分担が大事だよね。 おもしろがるって大事ですよ。そこからしか物事は生まれないわけで、あとはそれにどう責任を取るか。だから会社の若い人も、もっと仕事をおもしろがればいいと思うよ。自分が「これは絶対面白い」と思ったことは恥ずかしがらないで口にしたら、おもしろがる人がきっとでてくるから。 そのタイプは結局学生の頃から変わらないな。学生の時も、まっちゃん(シモシュ)にアイディアだけ言って先に寝ちゃうの。まっちゃんは徹夜して作っていて、起きて出来上がりを聴いて「そう、思った通り!」って。まっちゃんはそれ聞いてキレていたけど。でも僕からしたら、作曲も演奏もできるまっちゃんはすごくキラキラしてた。 お互い、50歳をすぎていろいろ転換期だと思うけど、あの頃みたいに、おもしろいから作る、作りたいから作る、って気持ちで作れたらいいよね。当たり前なんだけど、それが音楽の根源的なとこじゃない?音楽作るモチベーションなんて、友達と一緒に笑い合えるから楽しいとかですよ。 今、新しいことに踏み出せば、また60過ぎていろいろ見えてくるんじゃないかな。俺たち、今までやってきたことってまあまあだぜって思うよ。 後日談: さて、シモシュ不在の沖縄で思い出話をたっぷり聞いた様子を、スタジオでシモシュに報告しました。東外門さんから聞いたこんなこぼれ話も。 「そういえば、埼玉の大学にいたとき、雪が降ったのを初めて見て、まっちゃんを叩き起こしたことがあった。ほんのちょっと降っただけなんだけど、感激して。でもまっちゃんは白馬(長野県白馬村。豪雪地帯)の人だから、すげーめんどくさそうなわけ。僕がちっちゃな雪だるまを作るのを見て「恥ずかしいことするのやめて」と言っていたよ」 それにこたえるように、シモシュも東外門さんとの思い出を語っていました。 シモシュ 21歳の頃、「ハイヌーン」という彼が作ったメロディのモチーフを渡されて、曲を作ってと頼まれたことがある。「オキナワンチルダイっていう雰囲気で」って言うんだよ。意味は、風が止んで海も凪で、無風状態で湿気のある気だるい沖縄の日のことらしい。知るかよ!って思ったんだけど、自分なりに読み解いて作って、沖縄にいる彼に電話口で聞かせたの。今みたいにデータ転送なんてできないから、受話器にスピーカー当てて、「聞こえる?」って。そしたら聴き終わって「うわー、オキナワンチルダイ」って言ったんだよね。 彼に対しては、学生時代は、半分嫉妬心があったよ。あいつは発想もすごかったし、なぜか人が集まってくるんだよね。あいつにはかなわないなとどこかで思っていたからなあ。でも、今会ってもお互い何にも変わらないんだろうね。昔のまんまだと思う。なんか、くっだらない曲とか、一緒に作れたらいいよね。それも奴のセンスにはかなわないんだけどさ。 ずっと会っていなくても、学生時代の友人は特別なんだなあと、二人からの話を聞いて思いました。 学生時代の東外門さん自筆楽譜(シモシュ提供) 東外門さんは今、仕事で来年の沖縄本土復帰50周年に向けた番組企画を立ち上げながら、作曲活動では、子どものための曲も構想していると言います。「会社にあるたくさんのテレビモニターに残酷なニュースがたくさん流れてくるの。4人の子どもを持つ親として本当に辛いなと思った。そんな時に、生まれてくる子を祝福するような曲を作れたらと思うんだよね」肉親の戦争体験を受け止め、それを歌にして伝え「慰めたい」と願うことと、今現在困難な時代を生きる子どもたちを祝福したいと願うこと、そして、作る、伝える、という厳しさを人一倍知っていて、なお、仲間とつくることをおもしろがりたいという思い。それは一本の芯でぶれずに貫かれて、仕事も作曲も一つながりの、東外門さんの表現となっているのだと感じました。今、なぜものをつくるのか、という原点を改めて教えていただくような時間でした。友と笑い合うために作るような、ものづくりの原点のような創作活動から、どんな曲が生まれるのか、楽しみに待ちたいと思います。 文責:城間優子
2年前

Vol.3芝居をつくることはチームをつくること:脚本家・演出家麻創けい子さん

名古屋在住の脚本家麻創けい子さんと、俳優石黒寛さんが、X-jamスタジオに来てくださいました。麻創さんは演劇やラジオドラマの脚本家として活躍しながら、ラジオドラマ風舞台「時代横町」(ひと組)脚本、演出を務め、20年にわたるシリーズ作品として上演。石黒寛さんは、ひと組の事務局を務めながら、ご自身の劇団「はぐはぐ⭐︎カンパニー」を主宰して、保育園・幼稚園・おやこ劇場などで公演しています。 今回、11月1日に行われた「一人ミュージカル柿山伏(主演:梅園紗千)」の作・演出として、稽古に立ち会うために初めてスタジオまで来てくださったお二人に、稽古の合間にいろいろなお話を伺いました。 お客様 麻創けい子さん(脚本家・演出家)         石黒寛さん(俳優・はぐはぐ☆カンパニー主宰)聞き手 城間優子(X-jam制作プロデューサー) コーヒー担当 シモシュ(X-jam代表) 麻創けい子さん 前回に引き続き、今回も脚本家麻創けい子さんと俳優石黒寛さんの回。コーヒーとともに休憩したあとは、主に麻創さんの脚本家・演出家としての歩みをお聞きしました。 シモシュ みなさんはコーヒーは大丈夫ですか? 石黒 僕はコーヒー大好きです 麻創 私はすごく薄めで。最近カフェインや刺激物を避けていて、お酒も飲まなくなって。ほら長生きしないといけないから。 本番2週間前で、公演中止になって ———麻創さんはコロナ期間何か書いたりしてましたか? 麻創 私なんてもう引退しようと思ったもん。まあ、もういいかって。今年の5月に公演するはずだった作品を作っていて、本番2週間前でできないということになったんですよ。時代横町なんですけど、私はそれはもういつもギリギリで書くのね。いつもは稽古初日に行くじゃないですか。今日は一番上の3枚、「さてどうなるか」って渡して、一枚ずつこうやって増えて行く。 石黒 役者にとってはまだ自分が出てこない、まだ出てこない、みたいな世界ですよ。本当に出てくるんですよね!?みたいな。 シモシュ 稽古を見て次のシーンを思い浮かべたりするんですか? 麻創 もちろんそう。で、いつもそんなだから、今年こそはと思いながら、遊びにも行かずに、「よーしあと一息、10ページくらいで終わるぞ」と思った時に、ホールがクローズと聞いて、もうひっくり返って。「ここまで書いてか!」と。それで呆然としたけど、あと10枚とにかく書いておこうと思って書き終えて、音楽家の方に送って、「凍結!」って言って。 石黒 あのとき、小屋の事情で、中止にするかどうか決まるのがひと月前だったので、それまで制作も待っていられないじゃないですか。だからもう当然早めに動き始めるんだけど、いやいや、なんとなくいつもと違った様子でした。チケットのはけ方が。 麻創 お客様も高齢化してるので、今回コロナのことでいつもより出足悪いぞ、という感じはあったんですよね。 石黒 あれ?っと思ったところにホールのクローズが来たのでやっぱりダメかと思って。 麻創 それを書いて、もう腐っててもしょうがないんで、12月に自分でプロデュースやるんですけど、そのための作品を書いてました。だからお仕事もありがたかったですよ。あとはずっとぼーっとして、近くに森があるんですけどそこを歩いて。 本当に外に出ないと、なんだかおかしくなりそうな気がして、かといってとても自粛の厳しい時は買い物も一人で、という感じでしたでしょ。そうすると本当に人との接触がなくなるんですね。これはダメだと思って、森を歩くようにしたの。あとは本を読むことですね。 ———どんな本を読まれるんですか? 麻創 いろいろ読むんですけど、それまではそんなに読む系統ではないと思っていたんだけれど一冊買って面白いなあと思ったのが、原田マハさんですね。 ———面白いですよね!私も好きです。 麻創 ああほんと! ———「暗幕のゲルニカ」とか、読みました? 麻創 読みました。素晴らしいですよね。あと「リイチ先生」。実在の人物でもここまでこういうふうに書いていいんだ、と思わせてくれましたね。こういう書き方いいんだ、と思って。あとは昔から好きな重松清さんとか、小説も時代劇ものも大好きです。 石黒 読む本がなくなると、「本屋連れてけ、本屋連れてけ」ってね。また読むのが早いんですよ。 ———緊急事態宣言で、本屋と図書館が閉まったのは辛かったですよね。 麻創 そう、それは困ったね。 私がほんとうにやりたいことはなんだろう ———麻創さんはもともと脚本家志望ですか? 麻創 私もともと就職したのは建築会社なんです。工業高校の建築科出身で。意外すぎるよね。ですから、順当にゼネコンに入社して、10年間建築の仕事をしていて2級建築士も持っているんです。でももっと小さい頃から人形劇や演劇というものが大好きだったもんだから、就職したと同時にアマチュアの劇団の養成所に入ったんです。10年間両方やっていたんですけど、あれは20代半ばだったかな、向田邦子さんが飛行機事故で亡くなられたんですよね。それを会社でお昼のニュースでパッと見たんですよ。その時私はもう脚本書いていましたから、「いつか自分もああいうふうに書けるようになりたい。いつかいつかいつか」って思ってたんだけど、あんなにキラキラ輝いて、直木賞まで取ったすぐ後でしたから、そんな人が死んじゃうことがあるんだっていうのがガーンときたんですね。 自分も確かに若いんだけど、若いからといって明日があるとは限らないと思ったら、自分が本当にやりたいのはなんだろうって考えたんですよね。建築の仕事も、ゼネコンは箱物が多いのでビルばっかりですよね。私は、人の住宅を考えるのが好きだったんだけど、そういう仕事がどんどんなくなっていく。本当にいいのかなあと思っていた。その両方がその時期にピタッと合ったんですね。 それで、自分の本当にやりたいことはなんだ?って思ったら、週に土日くらいしか芝居の稽古に行けず、それも行けたり行けなかったりしている中で、その最中は本当に楽しくて、「毎日こういうふうにお芝居を作ることで1日が過ごせたらどんなにいいだろう」と思っていたんですよ。だったら、ということですよね。その時に名古屋市が戯曲の公募を始めたんですね。その時に、これから書いていってもいいのかどうか考えていたし、一級建築士を取るかどうかというのもその時期だったんですよ。 ———キャリアの分かれ道だったんですね。 麻創 そう。それで戯曲を書いて応募したんです。 自分が作る物語を喜んでくれる子がいた ———なぜそもそも脚本を書き始めたんですか? 麻創 なんでだろうね。最初に書いたのは小学校の時です。人形劇クラブに入っていて自分で脚本を書いて、人形を作ってというのが好きで。でも、もっと言うならば、私小学校は行ったんですけど、幼稚園は行ってないんですよ。幼稚園も保育園も行ってない。 大阪で生まれて、兄貴は幼稚園に行ったんですけど、私は、その場所でみんなで一緒に過ごすというのがものすごくプレッシャーだなと思ったんですね。幼心に行きたくなかったんです。なんか嫌だ、行きたくない。お兄ちゃんは行ってるけど、一回見に行った時に「嫌だ、こういうふうにみんながいるところに自分が行くのは嫌だ」って思って、「行かない!」って頑張ったのね。 頑張って、どこに行ってたかというと、映画館に行ってたの。大阪ですから、映画館はたくさんあって、ロードショー的にすぐにかかるところもあれば、回ってきたやつでまた見せるなんていう二番館三番館というのがあって、そういう小さいところに潜り込むわけですね。その頃時代劇の全盛で、近所のおじさんに、「あのね、こうやってね」とかいってやって見せたりすると、「ああそうか、ほな明日も行っとき」って行って券をくれるの。商店街の人が映画館の株を持っているんですよ。そうすると株主券みたいなのがあるでしょう、それをくれるんです。それで、同じ映画なんだけどまた行くわけですよ。そういうので、映画の面白さを知りました。それから、お父さんが自分でも落語をやるような人だったんだけど、松竹新喜劇なんかを見せてくれたり、そういう大阪の中で観た演芸にやっぱり惹かれてたんです。 そういうものを自分が演じようとは思わなかったんですよ。でもこういう世界が好きだ、こういうものを作りたいというか書きたいというか、なんかそう思ってたんだと思う。小さい頃、4〜5歳の頃からそう思っていて、そのまま小学校に行って、馴染めないんですよ。ましてや幼稚園行ってないもんだから、先生という存在をあまり知らないので、独身の女の先生を「おばちゃん、おばちゃん」って呼んでたんです。その時私は、父の仕事で大阪から岐阜に移ってたんですね。そうすると言葉も大阪弁じゃないですか。それで「おばちゃん」なんて呼んでたら、最初はその先生我慢してくれてたんですけど、「あなたにおばちゃんと呼ばれる筋合いはない」って。今だったら、そら怒ると思うわ。 ———「先生」と呼ぶってことすら知らなかったんですね。 麻創 知らないの。そうすると、「そうか、やっぱり学校という場所は、自分がいちゃいけないところだ」という感覚になったんですね。それで学校にあまり行きたくない。行こうと思うとお腹が痛くなる、頭痛くなる、という。お兄ちゃんとか親たちは「またけいこの気分屋が始まった」っていうんですけど、本当にダメなんですよね。それで行ったり行かなかったりしてたんです。でも、たまに行った時に、一人で手袋で人形作って、一人でごにょごにょやってるのね。そしたら、それを聞いてくれる子たちがいて、「それからどうなるの?」っていうふうに言ってくれたの。なんにも考えてなかったんだけど、「うん、またあした」って言って、帰ってから考えるの。 でもなんか嬉しかったんですよね。自分がやってる事を喜んでくれる子がいる。次の日も行く理由ができますよね。その話の続きを考えなきゃって。そして次の日行ってやるじゃないですか。やっぱり聞いてくれる。 私授業もあまりわからなかったから、授業中下敷きに物語をだーって書いてたんですよ。それがその「おばちゃん」と呼んだ先生に見つかって、怒られるって思ったんです。見つかった!って。そしたら、先生がその下敷きに二重丸を書いてくれたんです。「あ、これもやっていいことなんだ」って。その後その先生とはずーっと付き合いがあって、いい先生だったんですけど。怒らせちゃったなとは思うんですけどね。そうすると、学校に行く理由ができてきますよね。それでようやく友達もできるようになって、だんだん行けるようになる。そして人形劇クラブに入って、そしたら自分が物語作るのが好きだから、台本を書いてやるようになる。それがとっかかりですね。そういうものを作る人になりたいって。 それで、高校をなぜ建築科に行ったかなんですけど、自分は役者として出るというのはやっぱりあまり好きじゃないなって。でも舞台に関わりたいというのはすごくあったんですね。中学の頃、たしか劇団四季だったと思いますけど、その舞台の装置をやっている方がたしか建築科の出身で、そういう舞台美術をやるような人ってけっこう建築科出身がいたというのを知ったんですね。「これをやったら舞台に関われる」と思って、それで建築科に行ったんですよ。 そしたら、その学校はバリバリの建築を学ぶところで、構造計算とかそういうのをしっかりやるんだけど、私の思ってたのとはちょっと違うなと。高校入って一年経たないうちに、「これは違う」と思ったんですね。そういうことを母に話したら、母の知り合いがCBCテレビの美術部にいて、「ちょっと会ってきな」と言ってくれた。高校一年生のときに、CBCの美術部に行って、そうしたらすごく親切な人で、案内してあげるって言って見せてくれました。その頃は今みたいに外注じゃないから、全部自分のところでやってるから、中で描いたりしている。ああ、ここだ、ここでやってるんだ!と思って、そしたらね。「あのね。うちに入ろうと思ったら大学を出なきゃいけない。それか、あなた建築科だから、うちがデザインしたセットを作ってる会社があるから、もし本当にやりたかったらそこに入りなさい。そうしたらそういう仕事ができるようになる。でも、高校は卒業しないとね」って言われて。そうか、やっぱりそうかと思って、そこからまた真面目に3年間学校に通ったんですよ。そうしたら、3年間建築の勉強しているうちに、ああ、建築の仕事けっこう好きだなって思い始めたんですね。 それで、建築の仕事は仕事としてやりながら、お芝居やってるところに入れないかと考えた。その時岐阜だったんですけど、岐阜には劇団はほとんどなかったんですね。でも、名古屋だったらけっこういっぱいあったんです。じゃあ、名古屋に就職すればそういうところに入れるからそうしようと思って、名古屋の会社に入って、劇団の養成所に入って、それで向田事件になっちゃって。 初仕事で、「ラジオドラマってどう書けばいいんですか?」 ———舞台美術ではなく脚本の方に行ったんですね。 麻創 最初からなにしろ書いていたから。物語を作るのが大好きだったので、童話を描く人かお芝居を描く人かどっちかになりたいってずっとあったんですね。それがやっぱり、いろんなもの、人形劇なんか作ったりするうちに高校でも演劇部で書いてて、やっぱり演劇が面白い、舞台作りたい、舞台書きたいって。で、文芸部があるのがその頃は名古屋のアマチュア劇団だと一つしかなかったんですよ。それでそこに入って、文芸部に入って書く。ただね、その劇団では私が書いた本が上演されたのは10年で3本だけなんです。それでも「あなたは恵まれてる」って言われてたんですけど、10年で3本で勘定すると、20年でも6本かあ、と思って。当時は新劇全盛なので、オリジナルで書く本自体がほとんど上演されないんです。研究公演であったり、アトリエ公演であったり、そういうものでしかないので、劇団の中に文芸部が6~7人いましたけど、その作品が板に乗るのは1年に1回あればいいほう。そうするとどう考えてもねえ。 で、向田事件があって、名古屋の公募に出して、そしたら佳作だったんですよ。でも入選作がなかったんです。入選作がないということは、一番か。と思っていい気になるわね。そしたらこれは「続けなさい」って神様が言ってくれてるんだというふうに思って、会社を辞めたんです。 最初に仕事として依頼してくれたのはラジオドラマだったんです。佳作のあと、劇団を辞めて他の人たちにくっついてちいさな劇団を立ち上げたんですけど、そこで私の書いた芝居を見たNHKのディレクターさんから声がかかって、「ラジオドラマ書いてみない?」って。ラジオドラマなんて書いたことないんですよ。演劇だって何本だよ?っていうのに。でもその書いた芝居をその人が見て声をかけてくれたのがすごく嬉しかったし、ここだ!と思ったから、「やりますやります!はいはいはい!」って。それで書いて持って行ったら、「麻創さん、これラジオドラマじゃないよ」って言われて。「すみません。ラジオドラマってどう書けばいいんですか?」って言ったのね。そしたら、「うーん。」って言われたけど、その頃はまだ悠長な時代だし、すごくいいディレクターさんだったんです。その方が、「あのね。ラジオドラマっていうのはね」ってもうすごく懇切丁寧に一回ずつ書き直して持っていくとダメ出しをくれる。6回7回と書き直して、ようやく「うん、これならかけられる」って言ってくれて、ようやくですよ。ですから、ラジオドラマが独立してからのスタートと言ってもいいくらい。 ———しかも、ノウハウまでそこで仕事しながら学んだんですね。 麻創 そうです。仕事しながら教えてもらって、そしたらそのあとはテレビもやりましたけどラジオのご縁の方が深くなって、いろんな他の局でもラジオドラマを書くようになって。そしたら、ラジオの仕事をレギュラーでたくさんいただくようになるとものすごく忙しいんですよ。もう毎週毎週ラジオドラマ30分書くとなると大変でね。それが一つでは食べられないので、3つくらい掛け持ちすると、寝る時間がずっと2~3時間しかないくらい。でも、舞台の方も頼まれれば書きたいじゃないですか。舞台作品は書いて提供はするんですけど、舞台を作るのに関われないんですよ。書き下ろしても関われない。そうするとすごくジレンマがありますよね。それなら、自分でプロデュースしてやるようにしようと思って、10年間かけて一生懸命お金貯めたんです。舞台で赤字出して他の人に迷惑かけちゃいけないと思って。その頃になってくると、ラジオの仕事もだんだん少なくなっていって、もう、ここだな、と思ったので、思い切って舞台を作りました。その時に石黒さんに声かけて最初に出てもらって、そこからスタートさせたんです。 長く続けられるようにと始めた時代横町 石黒 23~24年前ですよね。僕は依頼されて出る役者だったので、何も知らずに1本目1本目と出て、3本目の途中に入籍しました。その時点でやっと帳簿だの見て、唖然としましたよ。これ3本で家建つじゃん、みたいな。貯めてたお金全部吐き出しましたからね。また、書きたいものが時代劇だったので、かつらやら衣装にものすごくお金かかってるんですよ。「これは続かんよ。これからどうする?」ってなったときに、「ラジオドラマの舞台化をしたい」という話で、それなら長く続けられるようにお金がなるべくかからないように、衣装も黒子状態にして、最初に準備した衣装を大事に使って足りなくなったら1着2着作るみたいな形で、他の衣装は着ない。舞台美術もいらないように音響照明で想像してもらう舞台にするという、今の形の時代横町を始めたんです。 麻創 最初ひと組は3人で始めたんですよ。私と石黒さんと、近藤さんという。 石黒 まだひと組という名前はできていなくて、3〜4年経ったころにだいたい顔ぶれが決まってきて、6人でひと組という名前にしました。だからいまだに客演はたくさんいるけど、メンバーは6人なんです。 ———メンバーが俳優だけじゃないというのが珍しいですよね。人形劇役者と俳優が混じっているのはあんまり他にないですよね。 麻創 他の地域はわかりませんけど、名古屋は演劇と人形劇ってすぐ隣にいるんだけど交流が全然なくって、その接着剤になってくれたのが立ち上げメンバーの近藤さんなんです。 石黒 時代横町は、語り部と人形というコラボレーションという形で始めて、5年間やっていく段階で、人形劇の人も「ちょっと語らせろよ」ってなって、じゃあ「人形貸せよ」ってぐちゃぐちゃになって、もうわけわからんくなってね。 麻創 それでやっぱり最初は赤字が続いたんですよ。それが5年目に代表をちびたさん(ながたひとし:ひと組の主要メンバーの人形劇役者)に変えてから、赤字がなくなったの。どうしてかわからんの。なんででしょうっていう感じなんだけど、ちびたさんに代表やってもらえればこのままいけるぞって。 石黒 僕は最初に始めたときにお願いしたのは、まず少なくてもいいから役者に払ってくれというのがあって、主要メンバーには一銭も入らないけど、スタッフと客演で出てくれた人たちには少ないながらもギャランティを出すということで始まった。最低限ペイできて、誰もお金入らないけど損はしない。でもみんなには出す。そこから始まってちょっとずつ、僕らにも入るようになって。 麻創 わーいわーい、今まで払っとったのに、ギャラもらえたって。 石黒 そりゃ稽古期間の時給で割ったらものすごいものになるけど、ゼロだったのがいくらかでも入るようになったということは、それだけお客さんも来てくれるようになったということだよね。それで、だんだんちょこちょこ旅公演もするようになって、もう、おじさんおばさんの修学旅行だよ。40代50代のおっちゃんおばちゃんが雪見ると旅先で雪合戦始めるものね。 芝居をつくっていくことは、チームをつくっていくこと ———麻創さんは演出はどうやって始めたんですか? 麻創 劇団時代は文芸部で演出助手をやっていて、その後、仲間と立ち上げた劇団を数年やっていたときに演出もやるようになって。でも本当の意味で演出の勉強をしたのは、やっぱりラジオドラマです。このときにやっぱりこれもお金もらって教えてもらったんですね。プロデューサーの方が、私に演出も任せると言ってくれたので、さっき言ったみたいに他のラジオドラマの現場と違って、頭から最後まで通してやるという舞台的な作り方をするので、そこで勉強しましたね。 石黒 僕もいろんな演出家の芝居に出ましたけど、麻創さんの演出は全く違う。たいていの演出家は誰に対しても、ダメの出し方とか、芝居の作り方とかが同じなんだけど、麻創さんの場合は、人によってダメ出しが違う。萎縮しちゃう人には萎縮しないように出す。打たれ強い奴はもうとことん叩く。本当に傷つきやすくて繊細で自分が全部言われているように感じてしまう人には、直接言わずに誰かに言ってるのを感じさせるとか、変えるんですよ。俺とあいつへのダメの出し方すごい差があるなって。人のタイプによって使い分けるみたいなところがあって、それはなかなか他の演出家はやっていない。ふつうはそこまで気を使っていられない。 でも、それはすごく、いいものを楽しくやりたいという思いの中から生まれて来たものだと思うんだけど、だからみんな「楽しかった」ってなる。何十年も前に演出した市民ミュージカルの仲間たちがいまだに桜の頃にお花見やったりして、その楽しさのまま仲間意識が続いていまだに集まっているんですよね。 ———それは特に意識してやっているんですか? 麻創 多分、私はスーパー演出家ではないんですね。ただ、言葉はとても大事にしたいと思っているのと、芝居を作っていくというのは、やっぱりチームを作っていくという感覚なので、それだけですねえ。 ———相手をみたら、どういうタイプかだいたいわかります? 麻創 そうですね。ああ、この人はすごく傷つきやすい人だなあ、じゃあどう言ったら届くかなあってできるだけその人の緊張が取れて、その人らしさが出てくれたらいいなあっていう。今この人は言っても大丈夫かな?とか、なんとなくわかりますね。 ———その、チームを大事にするやり方って、さっき伺った子どもの頃の体験も影響があるのかなという気がしました。幼稚園に居場所がないと感じたこととか。 麻創 ああ、それはありますね。本当にそうだと思います。 ———いつも自分が中心で回るような生き方じゃなかったからこそできる演出なのかもしれないですね。 石黒 それに比べて俺は。ちやほやされて勘違いしたタイプだから全然違うよね・・・ (笑) 稽古場に戻った麻創さんが、演出家として演者に伝えた言葉がありました。 「私思うんですけれども、演じ手って、完璧じゃあ魅力ないんですよね。欠陥があるほうが人って親しみが湧くんですよ。そうするとね、見てるほうが楽になるんです。「あのバカ」っていうふうに見た方が絶対に好感持てるし、お客さんを味方にするには笑いってとっても大事なんですね。だから、笑いを味方にするといいと思います。」 笑って泣ける人情物を書きつづけている麻創さん。小さな人形を手に、人とつながりを作って来た子ども時代の麻創さんの姿と、とても丁寧に心の動きをすくい取る作品作りが、一本につながっていることを感じました。まだまだ引退している場合ではなさそうです。                                                文責 城間優子(X-jam)
3年前

Vol.2 愛すべき人を演じて:俳優石黒寛さん

名古屋在住の脚本家麻創けい子さんと、俳優石黒寛さんが、X-jamスタジオに来てくださいました。麻創さんは演劇やラジオドラマの脚本家として活躍しながら、ラジオドラマ風舞台「時代横町」(ひと組)脚本、演出を務め、20年にわたるシリーズ作品として上演。石黒寛さんは、ひと組の事務局を務めながら、ご自身の劇団「はぐはぐ⭐︎カンパニー」を主宰して、保育園・幼稚園・おやこ劇場などで公演しています。 今回、11月1日に行われた「一人ミュージカル柿山伏(主演:梅園紗千)」の作・演出として、稽古に立ち会うために初めてスタジオまで来てくださったお二人に、稽古の合間にいろいろなお話を伺いました。 お客様 麻創けい子さん(脚本家・演出家)         石黒寛さん(俳優・はぐはぐ☆カンパニー主宰)聞き手 城間優子(X-jam制作プロデューサー) コーヒー担当 シモシュ(X-jam代表) 左:麻創けい子さん・右:石黒寛さん 麻創 もうね、9ヶ月ぶりですよ、名古屋出たの。 ———公演はもう再開しました? 石黒 7月からちょこちょこ、1件2件ずつくらい。楚々と移動しながらですよ。名古屋ナンバーなんで、サービスエリア入っても遠くの方に停めて、パッとトイレ行ってまたすぐ動くみたいな。 麻創 ちょうど愛知県が、関東圏への不要不急の移動をOKしたのは昨日から(10月14日)なんですよ。それで、昨日は大手を振って出て来たんです。 ———名古屋の劇団もみなさん大変でしたよね。 麻創 近くの劇団もファンドや助成金を使ってなんとかしのいだという話をたくさん聞きましたよね。 石黒 もう助成金の申請とか、極端に疲れるのよ。100キロ走ってこいと言われるほうがずっといいよ。 そんな近況報告から始まった話は、石黒寛さんが役者をはじめたきっかけまで遡りました。たっぷり聴けた昔の話から、尊敬すべき先輩役者たちの伝説、コロナ時代の舞台の話まで、2回に分けてお送りします。今回は、石黒さんのお話を中心にお届けします。麻創さんからもたっぷり伺ったお話は次回。 俺、役者になった 石黒 ずっと役者やってきて、30代半ば過ぎて40代近くなると、誰も芝居に誘ってくれなくなるの。だから自分でプロデュースをするしかないと思って、それからやっと制作するようになったの。自分でプロデュースすれば、やりたい芝居をやりたい人たちと、やりたいことできるじゃない?だから40代半ばすぎて、はぐはぐ⭐︎カンパニーを作ったの。 ———石黒さんはそれまでどこか劇団に入っていたんですか? 石黒 入っていない。ずっとフリー 麻創 こんなもん入れてくれるかね 石黒 誰かの下に入るというのがどうにも性に合わなくて。フリーであちこち顔を出せた方がいいやという感じ。だから基礎がないわけ。どこでも何も習ってないから。 シモシュ いわゆる独学なんですか? 石黒 独学というか、学もやってないんですけど。 ———そもそもどうやって演劇界に入ったんですか? 石黒 僕は高校出て、5年間サラリーマンやったの。その時の会社に、芝居始めたばかりの女の子がバイトに来て、「今度養成所の卒業公演があるのでチケット買ってください」と言うので、観に行ったんだけど、お芝居観たら、その子じゃないその子がそこにいたから、「なんだこの世界は」と思って、次の日会社辞めてた。で、まだ実家にいたから、次の日から家でゴロゴロしてて、親父が「仕事はどうしたんだ?」「辞めた」「なんでだ!?」「役者になった」「そんなの食っていけるのか」「いやわからんけど、役者になった」って。21歳かそこらだったかな。そこからずっとそのまま。 シモシュ 役者に「なった」んだ。もう勝ちだな、それ。 石黒 実家にいづらくなって、一人暮らしを始めたけど、何もやってないし、どうすれば芝居に出られるかもわからないし、とりあえずいろんな小屋とか劇団とか見に行って、多分どこかに入るんだろうなと思ったんだけど、入りたくねえなあと思ってたの。いろんな劇団に客演をするようになって、ずっとそのまま来ちゃった。 ———麻創さんとはどこで出会ったんですか? 麻創 その前にずっとラジオドラマをやってた時に彼が来て。その時のプロフィール写真が、若い時のイケイケ写真使ってるわけですよ。イケメン風の写真なの。それでプロデューサーと二人で「かっこいいじゃん。ジャニーズ系ですね。こんな子名古屋にいたかなあ」とか言ってチョイスして、当日来ましたよ。そしたら二人で「はっ!?」 石黒 ちょうどね、この写真はもういかんな、と思っていたところで。ドラマの撮影とか行くと、ディレクターさんが、「石黒さんどこ?」って走って探してるんだけど、「ここにいますけどー」って言ってもみんな写真で探してるから、スタッフが気づいてくれないから。 麻創 写真は全然違うけど、でもラジオだからまあいいかって思ったんだけど、最初からちょっとめちゃめちゃなんですよ。役とイメージと違うので、「それ違う」って言って。 石黒 それが初日。「なんだこいつ」と思いましたよ。当時僕33歳くらいだから、10年選手ですよ。なのに、「どこで覚えてきたの?何もするな!」まで言ったの。 麻創 「そういう芝居いらないいらない。もういい。なんにもするな」って言いました。 石黒 ねえ、どう思う? 麻創 そういう人は普通は切っちゃうんだけど、その時「それ違う」って言ったら、「じゃあこれはどうだ」っていろいろやってくるわけですよ。その食いつきをプロデューサーと二人で見ていて、「この人は今回の役には合ってはいなかったけど、可能性があると思うから、今度違う感じの役でもう一回呼んでみようか」という話になったの。 石黒 フリーだから、最初に行った現場で何か残さないと次がないと思って来てるわけじゃないですか。それでもうけちょんけちょんだったから、もう二度とないなと思ったら、翌週また声がかかったんですよ。毎週やってた番組で。「あれだけけちょんけちょんに言ってたのになぜだ」と思って、今度こそはと思って行きましたね。 それまでラジオドラマにずっとあんまりいい印象持ってなくて。最初に出た時に、女性と二人の短い会話のシーンだったんですけど、僕が行ったら、相手の人はスケジュールが合わなかったというので一人でセリフを入れるわけ。相手がどうしゃべるかもわからんのに。「どうやってこの会話自分だけ入れるんですか?」って聞いたら「あとはこっちでやりますんで」って言って。そんな世界なのかと思って、じゃあ僕は舞台の方がいいと思って、その後はずっと断ってたんですよ。でも友達は、「ここは違うから」と一生懸命誘ってくれて、確かに違ったのね。だって、ナレーションから音楽からセリフから、全部一緒にガーっとやるの。誰かがとちったら元に戻るんですよ。そんなやり方してるところないから、そこから面白いな、と思って。 麻創 今は簡単に繋いじゃうじゃないですか。その頃は一回止めて「もう一度」って全部流しながら録っていくんですよ。舞台と一緒で、その感情を音楽や語りをやってるみなさんを聴きながら感じながらやっていくという、そういうのを一発録りでやってたんです。 石黒 すごくおもしろかったけど、けちょんけちょんでした。で、2回目に行ったら、こういうドラマの作り方面白いな、と思って、それからは行くたびにディレクターに「出してくれ」と言い続けていたら、数ヶ月後にレギュラーにしてくれましたね。それからずっと出てます。 麻創 そう、それが出会い(笑) 鼻をぺっきぺきに折られて 石黒 確かに当時私は天狗でした。どこに行っても誰がいようが自分が一番だと思っていたので、もう折られてもすっと出るくらい、鼻が。でもぺっきぺき。ちょっと出て来たらパーンと折られる感じでしたね。その頃はボロクソ。俺ね、生まれてかつてあんなにひどい言われ方初めてだな。何をやってもダメだったね。ラジオも難しかったけど、芝居の台本に何にも書いてないこともあるんですよ。 麻創 「おじいさんよろしく」って台本に書いてある 石黒 そう、「ここで笑わせて。でもあんまり長くならないように、とか書いて合って、最初は怖かったよね、その書き方が。できるものならやってみろ的な。 麻創 1ヶ月やってた芝居があって、その時はお客さんを頭でつかんでほしいから、頭のしゃべりは「今日の時事ネタを使ってお客さんをほぐしてから本題に入ります」とか書いてあるの。 石黒 地獄でしたよ。三人のおばあちゃんの話をやったんだけど、本物のおばあちゃん女優二人に私が途中から入ってくるので、その時に「客席ほぐしてから入ってこい」っていうの。それが30ステージ。何もないんですよ、台本が。当時台本のある仕事しかしたことなかったから、30回のうちの23〜4回は地獄だった。何喋ってもダメ。 「もうダメ、何もない」って言って、でもどんどん出番は近づいてくるし、出なきゃいけないからとりあえず出て、もうわけがわからなかった。自分がなにやってるのか、何しゃべってるのかわかんなかったときに、ドカンと笑いがきて、なんかハッとなって。あれがなかったら今はないですよ。今は適当にしゃべってますけど、固くなっちゃってああいう感覚にはなれなかったですよね。よく20何日も我慢しましたよ。もう行きたくなかったもん。 シモシュ そのアドリブに関しては、終わった後にダメ出しとかなかったんですか? 麻創 「ダメだったね」って(笑) シモシュ ああ、ほんとのダメ出しだあ。 石黒 グサってくるのよ、グサって。 忘れられない先輩役者たち 石黒 時代横町は20年やっているので、いろんなピンチもありましたよ。出演者が朝、劇場入る車でそのまま病院に入って出演できなくなったことがあって、その時は本番14時開演の11時半くらいだったのかな。12時に入って、全部バーっと台本を麻創が書き換えて、「あなたこの役やって、これだけセリフ入れて」ってやって、本番やってお客さん誰も気づかない。みんなバタバタしないの、そういう時は。稽古の段階で役を回すから、誰がどの役に収まるかというのもいろんなパターンが生まれて、ベストだと思う配役でやるから、みんな慣れてるのね。 麻創 その時、主の語りをやってくださった女性は80代の方でしたけど、その方が一番慌てなかったんですよ。セリフを振り分けて行ったときにこの人に多分一番ウェイトがかかるな、と思ってたんだけど、「ここ変えていただけますか」「はい」って静かに。本当にさっさっさと自分で書き加えてね。その方が「そんなの困ったわ」って言ったらみんなもざわざわするけど、80代の方が「はい」って言ったらみんなもう必死ですよ。 石黒 みんな涼しい顔して本番やり始めたんだけど、本番初めてぶっつけでやったから、芝居の尺が全然変わって、みんな着替える時間がめちゃくちゃ短くなるというのに初めて気づく。それで泡食って着替えてるの。 さっきの女性はすごい方で、時代横町の始まりの時、1作品目にその女性が語り部で、途中で僕の語りと代わって、最後にまたその女性に戻るんですけど、もうね、稽古してここで本番迎えればいいな、というそのピークのラインに、その人は初見でくるんですよ。初見だから、どういう物語になるかもわからずに読んでるはずなのに。案の定、僕と交代して僕の一行目で麻創さんぴたっと止まりました。「違う」って。もう二行目にいけないのね。 ———最初のハードルが高すぎて。 石黒 そう。むちゃくちゃ高くしてくれたもん。どうしようもなくて、本当にその時役者辞めようと思ったもん。でもただ辞めるだけでは癪にさわるから、その作品の中で、何か一つ藁をも掴むつもりで、何かすがりつけるセリフはないかと思ったの。そうしたらひとつだけあって、その役は出征して帰らなくなる青年なんですけど、出征するとき集まってくれた人に「お見送りありがとうございました」という一文があって、これを毎回、自分の中からどういう音が出るかわからないけど吐き出そう、と思ってやったんです。そしたら千秋楽終わった時にその女性が「私にはあんなセリフは言えないわ」って言ってくださったので、「じゃあもうちょっとやります」って。 麻創 CBCが名古屋で最初に民放で開局したんですけど、そのCBCラジオの草分けからラジオの世界でずっとやってきた方なんですよ。 ———もう何が起こっても、という、どんなことも体験されたんですね。 石黒 生放送だった頃の人だからね、もうね。 麻創 第一話からずっと一緒にやってきて、80代になってもやっていらして、「来年もお願いしますね」と言っていて急逝されたんです。ギリギリ前日まで朗読教室もやって、最期まで現役で。それはもうかっこいいですよ。 石黒 一文一文ではなく、単語一語一語に気がこもっているんですよ。あんな喋り方できないですよ。 麻創 いい音を聞かせてもらったな、と思いますね。語りの音というのを。それはずっと耳に残っているんですね。そうすると、他のところでワークショップなんかで語りをやるときに、みんなが発してくれる音を聞くと、「甘い」というのがすごくよくわかる。本当に、ここにしか置けないという音を置いていく。そして、言葉尻の置き方の見事なこと。ああ、語りの名手ってこういうことかと思って。いいものを聞かせてもらいましたね。 石黒 その芝居は内容は大人向けですけど、舞台を観にきた4歳の女の子が、その人の言っていることはよくわかる。 麻創 言葉は難しいんだけど、その言葉の音に心があるから、伝わってくるんですよね。 石黒 それが、活字の言葉の意味よりも、感情で入ってくるから、知らない言葉でもわかるっていう。 麻創 昔はそういう方たちがたくさんいたでしょう。 ———はい、音と話のリズムがピタッとした方がいましたね。 麻創 ラジオドラマの時も、そういうベテランの方達に入ってもらってやった時、ラジオドラマは尺が厳しく決まってるでしょう。その時は24分30秒で収めるんですけど、「ここ長いな、どうしようかな、削ろうかな」と思っているときに、男性の方だったんですけど、「すみません、これ1分7秒かかってるんですけど、1分で収めていただけます?」って言ったら「はい」って言って時計も見ずに次に測ったら見事に1分で、ええ!って思ったものね。体に時計があるんだこの人は。と。 「僕はもう年だから、舞台には立てませんけれども、こういう世界なら、まだまだ使えますよ」って言われてね。 ———宝物ですよね、そういう方。 麻創 本当に。 石黒 僕も、師と仰いでいた人です。何か直接習ったわけではないんですよ。舞台は二本ご一緒して、一つはリア王だったかな。目をえぐられちゃう人の役で、いわゆる「動」の役だったんですけど、もう一本は「十二人の怒れる男」の本当にしょぼんとしたおじいちゃんで、ほとんどしゃべってないけどずっとそこに存在しているという「静」の芝居。両方目の前で見せてもらって、すごくよかったです。すごく見事だった。すごく優しい人で、全然上からものをいう人ではない。誰に対しても、どんな新人の子に対してもすごく紳士的に話される方でした。亡くなった時に、お通夜に伺ったんだけど、そんな気全然なかったのに、俺しゃくりあげるように泣いちゃって。どうしてこんなに泣けちゃうのかわからなかったんだけど、俺すごく尊敬してたんだなって。 シモシュ そういう人を目の前で観れたってすごい財産ですね。 笑ってりゃなんとかなる ———コロナの時期はどんなことしてましたか? 石黒 最初、3月にスケジュールが真っ白になった時、1ヶ月くらいはうはうはしてました。1ヶ月も休んだことないから。1ヶ月経ったら、なんだろう、ざわざわしてきて、なんか落ち着かないな、みたいな。みんな映像撮ってるみたいだから、ちょっと撮ってみようかなと思って、「はぐGの今日のことわざシリーズ」を始めて。 麻創 朝、ことわざをパパッと書いて渡すの。 ———あれは麻創さんが脚本を? 麻創 あ、違う違う。私が書いたのはことわざだけ。台本はないです。 石黒 もらったことわざ見て、一応2,3分、長くても4分くらいで感じたこととか直感的に思い出したこととかをじいさんがしゃべる。 ———じゃあ台本に「よろしく」って書いてあるのと一緒ですね。 麻創 そう。読めない字もあるから、そこから。自分の中で声を出さないでちょっと考えて、「うん。じゃあ始める」って言ったら練習もなく一発録り。 石黒 意味知らずに全然ことわざと関係ないことしゃべったりね。そうすると麻創さんは隣で「はいはい」みたいに笑ってる。全部嘘八百なんだけど、嘘を言っても、そうやってると自分が今まで生きてきたなかであったことや、そういうものもちょこちょこつまんで入れながら喋ってますよね、やっぱり。 朝撮影のためだけに衣装を着て。あれはあれで自分では錆びないためのリハビリみたいな感覚でしたね。3ヶ月くらいやって、まあ100本作って、世の中も戻ってきたから終わろうと。あれはあれでよかったかなと思う。 ———世の中が結構ピリピリしていた時に始まったから、本当に笑いました。「くっだらない」って思いました。あの頃みんな「がんばろう」的なけっこういい動画をあげてくるじゃないですか。 麻創 それがあったんですよ。どれ見ても、「そうじゃない」と思って、なんか日常のほにょんとしたやつをやろうって。 石黒 SNSの自分の写真に「笑ってりゃなんとかなる」と書いてるんだけど、とにかくくだらないのが今必要だなと思って。ちょっときゅうきゅうになってたからね。 https://youtu.be/GnMs1fA32hI はぐGの今日のことわざ1~5 ちょっとずつみんながおかしかった時期 石黒 今はスマホでニュースが見られて、こっちが聞かなくてもどんどんニュースが入ってくるから、情報が入り乱れで大変だよね。だから、ちょっとずつみんながおかしかった時期がありました。その人がどうのこうのというんじゃなくて、みんながそうなっちゃうんだろうなと思って。 麻創 本当にずっと家にいたら、たまに買い物でキョロキョロしながら出かけて、誰かとすれ違うのが怖い、という感覚があったりとか、おかしいよね。 石黒 おかしいよね、そんなのね。 ———犯人を探すみたいな、疑心暗鬼の時期でしたものね。 石黒 戦時中ですよ、あれ。自粛警察って本当に戦時中のアレと一緒ですよ。 ———非国民を探すみたいな 石黒 そうそう。 ———公演中の雰囲気は変わりました? 石黒 もう客席は違うよ。ソーシャルディスタンスで離れてるから、本当はものすごく嫌なんだけど、肩寄り添って見て欲しいんだけど、どうしてもすーっと行ってしまうような感覚があって、だからある意味疲れる。疲れるというか、「届いてるかな?」と思っちゃうんだよね。どうしても。みんなで肩寄せ合って笑ってたのが、マスクでこれだけしか見えない、なんか大きな声出すなと言われてるみたいでさ。そうすると、リアクションもそんなに返ってこないし、役者はなんかもっとやらなくちゃいけないんじゃないかと思っちゃう。 麻創 シモシュたちも子どもと一緒に歌ったりすることがありますでしょう。そういうのってどういう感じですか? シモシュ こないだコロナから初めて県内で公演したんです。僕は本番だけはマスクしないで、客席は各家族ごと座ってもらうけど、内容は変えてないです。実際僕の公演は周りの人とくっついたりいろんなことするので、どこまでやろうかと思ったんですが、家族ごとにくっついているので、結果的に家族が盛り上がるんですよ。子どもだけ遊ばせて、みたいなお父さんお母さんがいなくなったので、逆にこれいいなあと思って、だからやり方によってはおもしろいなと思いますよね。 石黒 この前公演した時、観る側もうずうずして待ってるのはすごくよくわかって、でもいろんな対応も僕らがいいかげんにやってあとで主催者の責任になるといけないから、ちゃんとステージと客席も2メートル取って、そこから先へ出るときはソーシャルディスタンスバージョン。 普段なら密を楽しむシーンがいっぱいあって、安全地帯はない芝居なんだけど、どうしても客に近付くシーンがあるので、その時は相手役に手袋とかカッパとか全部用意して、そこで着せ替え人形みたいに着せて全部それも見せて。もう汗だくでひっついちゃって脱げなくて引きちぎりながら脱がせて、そんなこともやってます。凹むのも悔しいから、逆に演出膨らませて、それを利用して「今しか見れないです」って言って。 会場によっては演者も全員マスクと言われたこともあって、それは無理ですっていうことで急遽違う場所探してもらったり。だって時代劇でマスクしてどうするのって。そうやって酒飲む芝居したって何もおもしろくないもんね。 お芝居の現場を臨場感たっぷりに再現する石黒さん ———フェイスシールドとかは使いますか?本番で。 石黒 人形劇とか小さい子向けでは使うけど、芝居は一切使わず生でやる。だけど前に小さい子向けの作品でつけていた時に途中で紐が切れちゃって、次の出番にちょっと間に合わなくて、ちょっとだけフェイスシールドなしで出て行ったら、「あれはどうしたんだ」って後から言われたこともありましたね。 ———うちもマスクはつけないので、「マウスシールドつけてくれた方が安心だ」って言われたこともありましたけど、何を科学的根拠に、どう判断しようか、いつも迷います。 石黒 でもそういう人はね、しても何か言ってくるの。いろんなことが多分蓄積されていて、何か言いたいというか、どこかで吐き出したいというのもあるし、だからいっぱいいっぱいだなあ、大変だなあって思う。それはその人が本当に言いたかったのかなと思うと、そうじゃないところの鬱憤がこっちの方に向けやすいというのもあると思うのね。だから、いろんな所で、いろんなご意見言われるんだけど、ここに吐き出せるならどうぞって思う。 ———その懐がすばらしいです。 麻創 だからこんなお腹になっちゃったの。 石黒 まあ丸い方が当たりがやわらかいというね。ナントカ警察もみんなそうですよ。いっぱいいっぱいですよ、あの人たち。誰かに吐き出さないとどうしようもないんだと思うのね。ある意味極限まで追い詰められたら、真面目でいい人でも本当に何するかわからないですよね。いろんな情報でそうなっちゃったり、風評被害であったり。でもそんなのはもう、日本は随分前からずっとひどいじゃない。どうしてもいろんな意味で余裕がなくなってくるんだよね。こんなに仕事がないと、生活も苦しくなったり、先への不安で本当におかしくなってくるんだよね。 麻創 でも、私らこの仕事選んだ時点で、もうね。 石黒 そんなに変わってないんですよ。半年仕事なくても「だから?」みたいな。だって芝居始めた頃なんか何年もなかったよ。お金ももらってなかったし。 ———というか、初舞台に立つ前に「役者になった」んですものね。 石黒 あはは、そうだよね。 その日の稽古の最後に、石黒さんは演者にこんなアドバイスをしていました。   「これはね、愛すべき人しか出てこない芝居なんですよ。愛すべき人を演じるのが僕らの仕事なの。人物を意地悪に描くんじゃなくて、この人も愛らしい、こっちの人もかわいい。その方が面白いし、腹に落ちやすい。役になって遊びだすと、そういう役がもっと生き生きしてくる。そうすると、どんどん楽しくなってくるんだよ。」   このコロナ禍の時期にあっても、観客の喜びも不安も受け止めながら、様々な制限も笑いに変えながら、ひょうひょうと演じる石黒さんの、役者の矜持と魅力がそこに込められていると感じました。                                                文責 城間優子(X-jam)
3年前

Vol.1 子どもが人間らしく育つために、生活にあそびと芸術を 二本松はじめさん

久々のX-jam Studioに動画撮影のために訪れた二本松はじめさん。つながりあそび・うたを通して、「人と人とのつながりあいって楽しいよ、生きているって楽しいよ」という思いを伝えるために「つながりあそび・うた」を今までに500以上も創ってきました。そして「つながりあそび・うた研究所」を29年前に立ち上げ、全国の保育園・幼稚園であそびうたのコンサートをおこなっています。また、保育士・幼稚園教諭に向けても、あそびうたの指導や、子ども観を伝える様々な講演活動や研修会も行っていて、その総数は年間100ステージに及びます。日本全国の子ども達・保育関係者に「ピカリン」という愛称で親しまれている二本松さん。いつもの夏なら、全国を飛び回っているのですが、特別な夏となった2020年の8月、今考えていることを、コーヒーとともにおしゃべりしながらお聞きしました。
3年前