Vol.3芝居をつくることはチームをつくること:脚本家・演出家麻創けい子さん
名古屋在住の脚本家麻創けい子さんと、俳優石黒寛さんが、X-jamスタジオに来てくださいました。麻創さんは演劇やラジオドラマの脚本家として活躍しながら、ラジオドラマ風舞台「時代横町」(ひと組)脚本、演出を務め、20年にわたるシリーズ作品として上演。石黒寛さんは、ひと組の事務局を務めながら、ご自身の劇団「はぐはぐ⭐︎カンパニー」を主宰して、保育園・幼稚園・おやこ劇場などで公演しています。 今回、11月1日に行われた「一人ミュージカル柿山伏(主演:梅園紗千)」の作・演出として、稽古に立ち会うために初めてスタジオまで来てくださったお二人に、稽古の合間にいろいろなお話を伺いました。
お客様 麻創けい子さん(脚本家・演出家)
石黒寛さん(俳優・はぐはぐ☆カンパニー主宰)
聞き手 城間優子(X-jam制作プロデューサー)
コーヒー担当 シモシュ(X-jam代表)
前回に引き続き、今回も脚本家麻創けい子さんと俳優石黒寛さんの回。コーヒーとともに休憩したあとは、主に麻創さんの脚本家・演出家としての歩みをお聞きしました。
シモシュ みなさんはコーヒーは大丈夫ですか?
石黒 僕はコーヒー大好きです
麻創 私はすごく薄めで。最近カフェインや刺激物を避けていて、お酒も飲まなくなって。ほら長生きしないといけないから。
本番2週間前で、公演中止になって
———麻創さんはコロナ期間何か書いたりしてましたか?
麻創 私なんてもう引退しようと思ったもん。まあ、もういいかって。今年の5月に公演するはずだった作品を作っていて、本番2週間前でできないということになったんですよ。時代横町なんですけど、私はそれはもういつもギリギリで書くのね。いつもは稽古初日に行くじゃないですか。今日は一番上の3枚、「さてどうなるか」って渡して、一枚ずつこうやって増えて行く。
石黒 役者にとってはまだ自分が出てこない、まだ出てこない、みたいな世界ですよ。本当に出てくるんですよね!?みたいな。
シモシュ 稽古を見て次のシーンを思い浮かべたりするんですか?
麻創 もちろんそう。で、いつもそんなだから、今年こそはと思いながら、遊びにも行かずに、「よーしあと一息、10ページくらいで終わるぞ」と思った時に、ホールがクローズと聞いて、もうひっくり返って。「ここまで書いてか!」と。それで呆然としたけど、あと10枚とにかく書いておこうと思って書き終えて、音楽家の方に送って、「凍結!」って言って。
石黒 あのとき、小屋の事情で、中止にするかどうか決まるのがひと月前だったので、それまで制作も待っていられないじゃないですか。だからもう当然早めに動き始めるんだけど、いやいや、なんとなくいつもと違った様子でした。チケットのはけ方が。
麻創 お客様も高齢化してるので、今回コロナのことでいつもより出足悪いぞ、という感じはあったんですよね。
石黒 あれ?っと思ったところにホールのクローズが来たのでやっぱりダメかと思って。
麻創 それを書いて、もう腐っててもしょうがないんで、12月に自分でプロデュースやるんですけど、そのための作品を書いてました。だからお仕事もありがたかったですよ。あとはずっとぼーっとして、近くに森があるんですけどそこを歩いて。
本当に外に出ないと、なんだかおかしくなりそうな気がして、かといってとても自粛の厳しい時は買い物も一人で、という感じでしたでしょ。そうすると本当に人との接触がなくなるんですね。これはダメだと思って、森を歩くようにしたの。あとは本を読むことですね。
———どんな本を読まれるんですか?
麻創 いろいろ読むんですけど、それまではそんなに読む系統ではないと思っていたんだけれど一冊買って面白いなあと思ったのが、原田マハさんですね。
———面白いですよね!私も好きです。
麻創 ああほんと!
———「暗幕のゲルニカ」とか、読みました?
麻創 読みました。素晴らしいですよね。あと「リイチ先生」。実在の人物でもここまでこういうふうに書いていいんだ、と思わせてくれましたね。こういう書き方いいんだ、と思って。あとは昔から好きな重松清さんとか、小説も時代劇ものも大好きです。
石黒 読む本がなくなると、「本屋連れてけ、本屋連れてけ」ってね。また読むのが早いんですよ。
———緊急事態宣言で、本屋と図書館が閉まったのは辛かったですよね。
麻創 そう、それは困ったね。
私がほんとうにやりたいことはなんだろう
———麻創さんはもともと脚本家志望ですか?
麻創 私もともと就職したのは建築会社なんです。工業高校の建築科出身で。意外すぎるよね。ですから、順当にゼネコンに入社して、10年間建築の仕事をしていて2級建築士も持っているんです。でももっと小さい頃から人形劇や演劇というものが大好きだったもんだから、就職したと同時にアマチュアの劇団の養成所に入ったんです。10年間両方やっていたんですけど、あれは20代半ばだったかな、向田邦子さんが飛行機事故で亡くなられたんですよね。それを会社でお昼のニュースでパッと見たんですよ。その時私はもう脚本書いていましたから、「いつか自分もああいうふうに書けるようになりたい。いつかいつかいつか」って思ってたんだけど、あんなにキラキラ輝いて、直木賞まで取ったすぐ後でしたから、そんな人が死んじゃうことがあるんだっていうのがガーンときたんですね。
自分も確かに若いんだけど、若いからといって明日があるとは限らないと思ったら、自分が本当にやりたいのはなんだろうって考えたんですよね。建築の仕事も、ゼネコンは箱物が多いのでビルばっかりですよね。私は、人の住宅を考えるのが好きだったんだけど、そういう仕事がどんどんなくなっていく。本当にいいのかなあと思っていた。その両方がその時期にピタッと合ったんですね。
それで、自分の本当にやりたいことはなんだ?って思ったら、週に土日くらいしか芝居の稽古に行けず、それも行けたり行けなかったりしている中で、その最中は本当に楽しくて、「毎日こういうふうにお芝居を作ることで1日が過ごせたらどんなにいいだろう」と思っていたんですよ。だったら、ということですよね。その時に名古屋市が戯曲の公募を始めたんですね。その時に、これから書いていってもいいのかどうか考えていたし、一級建築士を取るかどうかというのもその時期だったんですよ。
———キャリアの分かれ道だったんですね。
麻創 そう。それで戯曲を書いて応募したんです。
自分が作る物語を喜んでくれる子がいた
———なぜそもそも脚本を書き始めたんですか?
麻創 なんでだろうね。最初に書いたのは小学校の時です。人形劇クラブに入っていて自分で脚本を書いて、人形を作ってというのが好きで。でも、もっと言うならば、私小学校は行ったんですけど、幼稚園は行ってないんですよ。幼稚園も保育園も行ってない。
大阪で生まれて、兄貴は幼稚園に行ったんですけど、私は、その場所でみんなで一緒に過ごすというのがものすごくプレッシャーだなと思ったんですね。幼心に行きたくなかったんです。なんか嫌だ、行きたくない。お兄ちゃんは行ってるけど、一回見に行った時に「嫌だ、こういうふうにみんながいるところに自分が行くのは嫌だ」って思って、「行かない!」って頑張ったのね。
頑張って、どこに行ってたかというと、映画館に行ってたの。大阪ですから、映画館はたくさんあって、ロードショー的にすぐにかかるところもあれば、回ってきたやつでまた見せるなんていう二番館三番館というのがあって、そういう小さいところに潜り込むわけですね。その頃時代劇の全盛で、近所のおじさんに、「あのね、こうやってね」とかいってやって見せたりすると、「ああそうか、ほな明日も行っとき」って行って券をくれるの。商店街の人が映画館の株を持っているんですよ。そうすると株主券みたいなのがあるでしょう、それをくれるんです。それで、同じ映画なんだけどまた行くわけですよ。そういうので、映画の面白さを知りました。それから、お父さんが自分でも落語をやるような人だったんだけど、松竹新喜劇なんかを見せてくれたり、そういう大阪の中で観た演芸にやっぱり惹かれてたんです。
そういうものを自分が演じようとは思わなかったんですよ。でもこういう世界が好きだ、こういうものを作りたいというか書きたいというか、なんかそう思ってたんだと思う。小さい頃、4〜5歳の頃からそう思っていて、そのまま小学校に行って、馴染めないんですよ。ましてや幼稚園行ってないもんだから、先生という存在をあまり知らないので、独身の女の先生を「おばちゃん、おばちゃん」って呼んでたんです。その時私は、父の仕事で大阪から岐阜に移ってたんですね。そうすると言葉も大阪弁じゃないですか。それで「おばちゃん」なんて呼んでたら、最初はその先生我慢してくれてたんですけど、「あなたにおばちゃんと呼ばれる筋合いはない」って。今だったら、そら怒ると思うわ。
———「先生」と呼ぶってことすら知らなかったんですね。
麻創 知らないの。そうすると、「そうか、やっぱり学校という場所は、自分がいちゃいけないところだ」という感覚になったんですね。それで学校にあまり行きたくない。行こうと思うとお腹が痛くなる、頭痛くなる、という。お兄ちゃんとか親たちは「またけいこの気分屋が始まった」っていうんですけど、本当にダメなんですよね。それで行ったり行かなかったりしてたんです。でも、たまに行った時に、一人で手袋で人形作って、一人でごにょごにょやってるのね。そしたら、それを聞いてくれる子たちがいて、「それからどうなるの?」っていうふうに言ってくれたの。なんにも考えてなかったんだけど、「うん、またあした」って言って、帰ってから考えるの。
でもなんか嬉しかったんですよね。自分がやってる事を喜んでくれる子がいる。次の日も行く理由ができますよね。その話の続きを考えなきゃって。そして次の日行ってやるじゃないですか。やっぱり聞いてくれる。
私授業もあまりわからなかったから、授業中下敷きに物語をだーって書いてたんですよ。それがその「おばちゃん」と呼んだ先生に見つかって、怒られるって思ったんです。見つかった!って。そしたら、先生がその下敷きに二重丸を書いてくれたんです。「あ、これもやっていいことなんだ」って。その後その先生とはずーっと付き合いがあって、いい先生だったんですけど。怒らせちゃったなとは思うんですけどね。そうすると、学校に行く理由ができてきますよね。それでようやく友達もできるようになって、だんだん行けるようになる。そして人形劇クラブに入って、そしたら自分が物語作るのが好きだから、台本を書いてやるようになる。それがとっかかりですね。そういうものを作る人になりたいって。
それで、高校をなぜ建築科に行ったかなんですけど、自分は役者として出るというのはやっぱりあまり好きじゃないなって。でも舞台に関わりたいというのはすごくあったんですね。中学の頃、たしか劇団四季だったと思いますけど、その舞台の装置をやっている方がたしか建築科の出身で、そういう舞台美術をやるような人ってけっこう建築科出身がいたというのを知ったんですね。「これをやったら舞台に関われる」と思って、それで建築科に行ったんですよ。
そしたら、その学校はバリバリの建築を学ぶところで、構造計算とかそういうのをしっかりやるんだけど、私の思ってたのとはちょっと違うなと。高校入って一年経たないうちに、「これは違う」と思ったんですね。そういうことを母に話したら、母の知り合いがCBCテレビの美術部にいて、「ちょっと会ってきな」と言ってくれた。高校一年生のときに、CBCの美術部に行って、そうしたらすごく親切な人で、案内してあげるって言って見せてくれました。その頃は今みたいに外注じゃないから、全部自分のところでやってるから、中で描いたりしている。ああ、ここだ、ここでやってるんだ!と思って、そしたらね。「あのね。うちに入ろうと思ったら大学を出なきゃいけない。それか、あなた建築科だから、うちがデザインしたセットを作ってる会社があるから、もし本当にやりたかったらそこに入りなさい。そうしたらそういう仕事ができるようになる。でも、高校は卒業しないとね」って言われて。そうか、やっぱりそうかと思って、そこからまた真面目に3年間学校に通ったんですよ。そうしたら、3年間建築の勉強しているうちに、ああ、建築の仕事けっこう好きだなって思い始めたんですね。
それで、建築の仕事は仕事としてやりながら、お芝居やってるところに入れないかと考えた。その時岐阜だったんですけど、岐阜には劇団はほとんどなかったんですね。でも、名古屋だったらけっこういっぱいあったんです。じゃあ、名古屋に就職すればそういうところに入れるからそうしようと思って、名古屋の会社に入って、劇団の養成所に入って、それで向田事件になっちゃって。
初仕事で、「ラジオドラマってどう書けばいいんですか?」
———舞台美術ではなく脚本の方に行ったんですね。
麻創 最初からなにしろ書いていたから。物語を作るのが大好きだったので、童話を描く人かお芝居を描く人かどっちかになりたいってずっとあったんですね。それがやっぱり、いろんなもの、人形劇なんか作ったりするうちに高校でも演劇部で書いてて、やっぱり演劇が面白い、舞台作りたい、舞台書きたいって。で、文芸部があるのがその頃は名古屋のアマチュア劇団だと一つしかなかったんですよ。それでそこに入って、文芸部に入って書く。ただね、その劇団では私が書いた本が上演されたのは10年で3本だけなんです。それでも「あなたは恵まれてる」って言われてたんですけど、10年で3本で勘定すると、20年でも6本かあ、と思って。当時は新劇全盛なので、オリジナルで書く本自体がほとんど上演されないんです。研究公演であったり、アトリエ公演であったり、そういうものでしかないので、劇団の中に文芸部が6~7人いましたけど、その作品が板に乗るのは1年に1回あればいいほう。そうするとどう考えてもねえ。
で、向田事件があって、名古屋の公募に出して、そしたら佳作だったんですよ。でも入選作がなかったんです。入選作がないということは、一番か。と思っていい気になるわね。そしたらこれは「続けなさい」って神様が言ってくれてるんだというふうに思って、会社を辞めたんです。
最初に仕事として依頼してくれたのはラジオドラマだったんです。佳作のあと、劇団を辞めて他の人たちにくっついてちいさな劇団を立ち上げたんですけど、そこで私の書いた芝居を見たNHKのディレクターさんから声がかかって、「ラジオドラマ書いてみない?」って。ラジオドラマなんて書いたことないんですよ。演劇だって何本だよ?っていうのに。でもその書いた芝居をその人が見て声をかけてくれたのがすごく嬉しかったし、ここだ!と思ったから、「やりますやります!はいはいはい!」って。それで書いて持って行ったら、「麻創さん、これラジオドラマじゃないよ」って言われて。「すみません。ラジオドラマってどう書けばいいんですか?」って言ったのね。そしたら、「うーん。」って言われたけど、その頃はまだ悠長な時代だし、すごくいいディレクターさんだったんです。その方が、「あのね。ラジオドラマっていうのはね」ってもうすごく懇切丁寧に一回ずつ書き直して持っていくとダメ出しをくれる。6回7回と書き直して、ようやく「うん、これならかけられる」って言ってくれて、ようやくですよ。ですから、ラジオドラマが独立してからのスタートと言ってもいいくらい。
———しかも、ノウハウまでそこで仕事しながら学んだんですね。
麻創 そうです。仕事しながら教えてもらって、そしたらそのあとはテレビもやりましたけどラジオのご縁の方が深くなって、いろんな他の局でもラジオドラマを書くようになって。そしたら、ラジオの仕事をレギュラーでたくさんいただくようになるとものすごく忙しいんですよ。もう毎週毎週ラジオドラマ30分書くとなると大変でね。それが一つでは食べられないので、3つくらい掛け持ちすると、寝る時間がずっと2~3時間しかないくらい。でも、舞台の方も頼まれれば書きたいじゃないですか。舞台作品は書いて提供はするんですけど、舞台を作るのに関われないんですよ。書き下ろしても関われない。そうするとすごくジレンマがありますよね。それなら、自分でプロデュースしてやるようにしようと思って、10年間かけて一生懸命お金貯めたんです。舞台で赤字出して他の人に迷惑かけちゃいけないと思って。その頃になってくると、ラジオの仕事もだんだん少なくなっていって、もう、ここだな、と思ったので、思い切って舞台を作りました。その時に石黒さんに声かけて最初に出てもらって、そこからスタートさせたんです。
長く続けられるようにと始めた時代横町
石黒 23~24年前ですよね。僕は依頼されて出る役者だったので、何も知らずに1本目1本目と出て、3本目の途中に入籍しました。その時点でやっと帳簿だの見て、唖然としましたよ。これ3本で家建つじゃん、みたいな。貯めてたお金全部吐き出しましたからね。また、書きたいものが時代劇だったので、かつらやら衣装にものすごくお金かかってるんですよ。「これは続かんよ。これからどうする?」ってなったときに、「ラジオドラマの舞台化をしたい」という話で、それなら長く続けられるようにお金がなるべくかからないように、衣装も黒子状態にして、最初に準備した衣装を大事に使って足りなくなったら1着2着作るみたいな形で、他の衣装は着ない。舞台美術もいらないように音響照明で想像してもらう舞台にするという、今の形の時代横町を始めたんです。
麻創 最初ひと組は3人で始めたんですよ。私と石黒さんと、近藤さんという。
石黒 まだひと組という名前はできていなくて、3〜4年経ったころにだいたい顔ぶれが決まってきて、6人でひと組という名前にしました。だからいまだに客演はたくさんいるけど、メンバーは6人なんです。
———メンバーが俳優だけじゃないというのが珍しいですよね。人形劇役者と俳優が混じっているのはあんまり他にないですよね。
麻創 他の地域はわかりませんけど、名古屋は演劇と人形劇ってすぐ隣にいるんだけど交流が全然なくって、その接着剤になってくれたのが立ち上げメンバーの近藤さんなんです。
石黒 時代横町は、語り部と人形というコラボレーションという形で始めて、5年間やっていく段階で、人形劇の人も「ちょっと語らせろよ」ってなって、じゃあ「人形貸せよ」ってぐちゃぐちゃになって、もうわけわからんくなってね。
麻創 それでやっぱり最初は赤字が続いたんですよ。それが5年目に代表をちびたさん(ながたひとし:ひと組の主要メンバーの人形劇役者)に変えてから、赤字がなくなったの。どうしてかわからんの。なんででしょうっていう感じなんだけど、ちびたさんに代表やってもらえればこのままいけるぞって。
石黒 僕は最初に始めたときにお願いしたのは、まず少なくてもいいから役者に払ってくれというのがあって、主要メンバーには一銭も入らないけど、スタッフと客演で出てくれた人たちには少ないながらもギャランティを出すということで始まった。最低限ペイできて、誰もお金入らないけど損はしない。でもみんなには出す。そこから始まってちょっとずつ、僕らにも入るようになって。
麻創 わーいわーい、今まで払っとったのに、ギャラもらえたって。
石黒 そりゃ稽古期間の時給で割ったらものすごいものになるけど、ゼロだったのがいくらかでも入るようになったということは、それだけお客さんも来てくれるようになったということだよね。それで、だんだんちょこちょこ旅公演もするようになって、もう、おじさんおばさんの修学旅行だよ。40代50代のおっちゃんおばちゃんが雪見ると旅先で雪合戦始めるものね。
芝居をつくっていくことは、チームをつくっていくこと
———麻創さんは演出はどうやって始めたんですか?
麻創 劇団時代は文芸部で演出助手をやっていて、その後、仲間と立ち上げた劇団を数年やっていたときに演出もやるようになって。でも本当の意味で演出の勉強をしたのは、やっぱりラジオドラマです。このときにやっぱりこれもお金もらって教えてもらったんですね。プロデューサーの方が、私に演出も任せると言ってくれたので、さっき言ったみたいに他のラジオドラマの現場と違って、頭から最後まで通してやるという舞台的な作り方をするので、そこで勉強しましたね。
石黒 僕もいろんな演出家の芝居に出ましたけど、麻創さんの演出は全く違う。たいていの演出家は誰に対しても、ダメの出し方とか、芝居の作り方とかが同じなんだけど、麻創さんの場合は、人によってダメ出しが違う。萎縮しちゃう人には萎縮しないように出す。打たれ強い奴はもうとことん叩く。本当に傷つきやすくて繊細で自分が全部言われているように感じてしまう人には、直接言わずに誰かに言ってるのを感じさせるとか、変えるんですよ。俺とあいつへのダメの出し方すごい差があるなって。人のタイプによって使い分けるみたいなところがあって、それはなかなか他の演出家はやっていない。ふつうはそこまで気を使っていられない。
でも、それはすごく、いいものを楽しくやりたいという思いの中から生まれて来たものだと思うんだけど、だからみんな「楽しかった」ってなる。何十年も前に演出した市民ミュージカルの仲間たちがいまだに桜の頃にお花見やったりして、その楽しさのまま仲間意識が続いていまだに集まっているんですよね。
———それは特に意識してやっているんですか?
麻創 多分、私はスーパー演出家ではないんですね。ただ、言葉はとても大事にしたいと思っているのと、芝居を作っていくというのは、やっぱりチームを作っていくという感覚なので、それだけですねえ。
———相手をみたら、どういうタイプかだいたいわかります?
麻創 そうですね。ああ、この人はすごく傷つきやすい人だなあ、じゃあどう言ったら届くかなあってできるだけその人の緊張が取れて、その人らしさが出てくれたらいいなあっていう。今この人は言っても大丈夫かな?とか、なんとなくわかりますね。
———その、チームを大事にするやり方って、さっき伺った子どもの頃の体験も影響があるのかなという気がしました。幼稚園に居場所がないと感じたこととか。
麻創 ああ、それはありますね。本当にそうだと思います。
———いつも自分が中心で回るような生き方じゃなかったからこそできる演出なのかもしれないですね。
石黒 それに比べて俺は。ちやほやされて勘違いしたタイプだから全然違うよね・・・
(笑)
稽古場に戻った麻創さんが、演出家として演者に伝えた言葉がありました。
「私思うんですけれども、演じ手って、完璧じゃあ魅力ないんですよね。欠陥があるほうが人って親しみが湧くんですよ。そうするとね、見てるほうが楽になるんです。「あのバカ」っていうふうに見た方が絶対に好感持てるし、お客さんを味方にするには笑いってとっても大事なんですね。だから、笑いを味方にするといいと思います。」
笑って泣ける人情物を書きつづけている麻創さん。小さな人形を手に、人とつながりを作って来た子ども時代の麻創さんの姿と、とても丁寧に心の動きをすくい取る作品作りが、一本につながっていることを感じました。まだまだ引退している場合ではなさそうです。