珈琲とおしゃべりと

Vol.4 つくること、残すこと、伝えること 沖縄の作曲家:東外門清順さん

沖縄で作曲活動をしている東外門清順(あがりふかじょうせいじゅん)さんにお話をうかがいました。沖縄で人気のお笑いキャラクター「護得久栄昇」さんに楽曲を書き下ろしている作曲家で、普段はテレビ放送局で働きながらペンネームで作曲活動をしています。そして実はこの方、シモシュの音楽大学時代の同級生。今回、私がお話をお聞きしたいと思ったのは、昨年発表された「椿油とワンピース」という曲がとても印象に残って頭から離れなくなったからでした。2021年10月下旬、ようやく緊急事態宣言が解除され、個人的に沖縄の親戚を訪ねた折に、東外門さんにお会いすることができました。
顔出しNGの東外門さん

その日の那覇の気温は26度。想像よりも爽やかな気候で、夕方会社から出てきた東外門さんに「あまり暑くないですね」というと、「暑くないどころか、寒いよー、冬が来たかと思うよー」と半袖のかりゆしウエアから出た腕をさすりながら言いました。
石垣島出身の東外門さんの温度感にすっかり心はほぐれて、お話がはじまりました。

話し手:東外門清順(あがりふかじょう せいじゅん)
聞き手:城間優子(X-jam)

「音楽の先生になるんだろうな」と思っていた

———今、会社ではどんなお仕事をされているんですか?

6月までは報道にいたんですが、今は、編成の仕事と、ガラじゃないんですけど、インターネットを活用した次世代メディアの準備をしています。その合間を縫って曲を作っているので、朝4時頃起きて曲を書いて、子ども達の朝ごはんと弁当担当は僕だから5時半くらいから作り始めて会社に行く。あとは土日を使って作る感じですね。もう、作りたい曲が頭の中にたくさんあって止まらないのよ。

———ずっと音楽を続けていたんですか?

埼玉の音楽短期大学でまっちゃん(シモシュのこと)と出会ったときは、僕の専攻はユーフォニウムという楽器だったんですけど、入ってみると優秀な人がいっぱいいるわけ。それで演奏の才能はないなと思って、その後沖縄県立芸大に入り直して民族音楽の研究の方に行ったら、それがすごく自分には合っていました。卒業するときに、なんとなく「学校の先生になるんだろうな」と思っていたんだけど、友達が放送局を受けるのに付き合って受けたら、受かってしまって入社しました。音楽をやっていたのに最初警察担当になって。その後はいたずら程度に曲は作っていたけど、そんなにたくさんは作っていなかったですね。

仕事に追われる中、番組の曲を作ったりはしていたものの、再び本格的に曲を作るきっかけになったのが、2017年、沖縄で人気のお笑い芸人が民謡歌手に扮した「護得久栄昇」さんと会い、楽曲を提供したことでした。なかでも「れもんけーき節」は、デモ曲を関係者に聴かせたときには「みんなぽかーんとしていた」といいますが(多分聴けば理由がわかります)沖縄のみならず、本土のFMでも取り上げられる人気曲に。護得久組の一員として、どんどん曲を作るようになります。そして2020年6月23日、YouTubeで「椿油とワンピース」が公開されました。

「椿油とワンピース」はこんな出だしで始まります。

僕の家の隣に住んでる白髪のオバーの話です
オバーはたぶん、とってもオバーで
コンクリ瓦の家の裏
狭くてちっちゃい裏座の部屋に 
一人ぼっちで住んでるよ
オバーは病気で目が見えないから、僕がお使い係です

[椿油とワンピース]

この曲を聴いたとき、シンプルで懐かしいメロディとともに、自分の祖母の姿や匂いまで瞬時に思い出されました。誰かの記憶の断片に歌を通して触れることによって、自分の眠っていた記憶が呼び起こされる、不思議な歌だと思いました。 でも、コミックソングを精力的に発表する中、あえて違ったテイストの曲を書いたのはどうしてなのでしょうか。

僕らの世代が知ってる記憶を残したい

もちろんお笑いの曲はこれからも作りたいし、楽しいけど、それだけではなくパーソナルな部分も歌にしてみたいと思っていたんです。小さい頃、近所の目の見えないオバーの買い物を手伝っていたことを歌にしたいなと思って、一番の歌詞はさーっと出てきたんですが、完成しないままで、その後、オバーの葬式の時のイメージと、母の戦争体験を聞いていた記憶とかを組み合わせてできたのがあの曲です。最後がなかなか決まらなかった時に、オバーの印象で象徴的な「椿油とワンピース」というキーワードが出てきて、ポッとはまったの。

曲に出てくるオバーは明治生まれで、出かける時は椿油で髪を綺麗にして、いっちょううらのハイカラなワンピースを着て強いタバコをふかしてる、本当に昔ながらの沖縄のオバーで、今そんなオバーはいないですよ。あの、タバコと椿油とオバーの体臭の混じったような匂いの記憶を持っているのは、僕らの世代が最後かもしれないから、そういう記憶は残したいなあと思った。

「こんな歌詞ができた」と護得久組に聞かせたら、「すごくいい」と言ってくれて、護得久組で出してみることになりました。どうしても沖縄慰霊の日(注:6月23日。沖縄での地上戦が終わった日であり、沖縄戦犠牲者の霊を慰め平和を願う沖縄の休日)に間に合わせたいと思って、僕が歌った仮の歌のまま、子供の声に変換してもらって、これでいいんじゃない?って出しました。

同世代の人はこれを聴いてすごく懐かしいと言ってくれますね。今の若い人はピンとこないかもしれないけど、昔のオバーの匂いが立ち上がってくるような曲になっていたらいいなと思います。

戦争体験者の子どもが作った非戦の歌

その後、東外門さんは、母から聞いた戦争体験を元にした「南洋哀歌〜ゆきちゃんの場合〜」という曲を、沖縄のクラシック音楽ユニット「おから」に書き下ろしました。少女だった母の壮絶な体験を静かに歌うこの曲には、スローガンのような強いメッセージはありません。

子どもの頃から、僕はお袋が時々台所で「お父さん、お母さん」ってまるで子どもみたいに泣くのを見ていたんですよ。でもその頃の僕には何もできないし、よくわかっていなかった。数年前に母が入院していたとき、病室で昔のことを語りだしたことがあって、「ちょっと待って!」って慌ててノートパソコンを持ち込んで書きつけました。

お袋は、サイパンで集団自決で両親も妹と弟も全員亡くして、一人生き残って、収容所に連れて行かれた後、引き揚げ船で沖縄に帰ってきた。そのことを知った叔父さんが、2年半かけて探してくれて、別の家の養女になっていた母を見つけ出し、引き取って育ててくれたんです。

それを聞いて、最初はドキュメンタリーにしたいと思ったんだけど、身内のことをドキュメンタリーにするのはすごく難しい。結局作れないままで、今回コロナで自宅待機になって、時間がたっぷりあった時に、いよいよ作らないと、と思って、歌にしようと思いました。

自分が親になってみると、その時のお袋の姿が自分と重なるわけですよ。

僕らの世代は、家族に戦争を体験した人がいたけど、今の人にはそういうリアリティはない。たまたま自分は、戦争体験を持つ親の話を聞いて、それを自分で表現できる手段を与えてもらってるわけだから、何か形にしないといけないと思ったんです。だから、この曲は、戦争体験者の子供がつくった非戦の歌です。

この動画の終わりに、作者のメッセージの中で「8歳のゆきちゃん(母)を慰めたい」と東外門さんは書いています。母の癒えない心の傷を見てきたからこそ、強い反戦歌ではなく、あえて優しい歌になったのでしょう。だからこそ、忘れてはいけないことを次の世代に伝える力があるように思いました。二つの曲は、貴重な時代の声を歌にのせた、今の時代のわらべうたのように聞こえます。

音楽の神様に祝福されるということ

———いろんな人に曲を書き下ろして、活躍の場が広がっていますね。

自分が演奏できないのが良かったんだと思います。多分、自分で全部作って演奏できたら、誰にも頼む必要がないから、そこまで広がらなかったかもしれないですね。僕は、売れたいとかは全然思わない。でも、曲が生まれる理由って絶対あるはずで、生まれた曲は一つの人格みたいに一人歩きするものだと思うから、すぐには世に出なくても、縁があったときに誰かに歌ってもらえたらうれしい。不思議とご縁がつながって、歌ってほしいなと思う人に出会ったりするんです。本当に自分が演奏できなくて良かったなと思うし、演奏できる人のことを尊敬していますよ。

———演奏する側にならなかった挫折感はなかったですか?

挫折はありましたよ。ものすごくある。学生時代、僕が1週間かけて練習したことを1日で出来る人がいて、全てにおいてスピードが違う。でもすごい人たちに出会えて、早めに諦めがついたのは、挫折だけど悪いことじゃないと思います。今も曲を作って喜んでくれる人がいるから、音楽を長く続けること自体は挫折していないわけだし。だからこそ、プロで続けていける人はすごいなと思うし、かっこいいなと思う。

———その、「プロ」というのはどういう人のことだと思いますか?

音楽が経済的な基盤になっているかどうか、というのが基本だとは思うんですけど、今はそれだけじゃないですよね。小椋佳さんとか、すごく音楽に長けているのに銀行員をしている人もいるから、線引きは難しいし、答えはないと思う。ただ自分の中であるのは、「作り続けられる人」かな。どの状況でも作らざるを得なくて、作り続けるのがプロだと思う。アマチュアは作りたい時に作る。プロは、理由なんかなくても何十年も生み出し続けられる人なんだと思います。

僕は、音楽の神様って確かにいると思うんです。神様に祝福される人と、そうじゃない人がいる。でも、神様は祝福もするけど苦しみも与える。作り続けないといけないという宿命からは逃れられない。

池間島のツカサ(注:島の神事を司る巫女のような存在)の話を聞いたことがあるんですが、ツカサになった人は、自分が受け継ぐことは知らず、ある日夢に神様が出てきて、次の日御嶽(注:うたき。沖縄独特の島の聖域、拝所)に行ったら、その人がいたんだって。「この人が夢に出てきた」って周りに言ったら「あんたが後継だね」と言われる。だけどそれから頭の中でずーっと神様の指示があるから、嫌になって逃げようと思ったんだって。でも神様に「あんたは選ばれた人だから、逃がさんよ、許さんよ」と言われて、それが運命なんだって諦めてツカサを受け継いだという話なんです。

だから、音楽の神様に祝福されるということは、与えるけど、奪う。それがセットになっているんだと思う。だからプロの苦しみはアマチュアにはわからない。その中で続けていけるのがプロだと思う。

自分は全然そんなのなくて、気楽にやってるだけだから、その大変さは本当にはわからないですよ。

おもしろがることから物事は生まれる

僕は演奏するより「これやったらおもしろそう」「この人に声かけたらおもしろそう」というアイディアがどんどん出る方で、それが実現するのがワクワクするんです。テレビの仕事も同じで、企画は僕が立てて、形にするのはその道のプロがしっかりやってくれるから安心して任せられる。自分がプレイヤーになるよりは、他の人にバトンを渡す方が向いてるなと思う。僕が0から1を渡した後は、後はプロがこんなふうにしようって話を広げて1から10にしてくれるから、これが楽しくてしょうがない。全部自分でやろうとしないで、役割分担が大事だよね。

おもしろがるって大事ですよ。そこからしか物事は生まれないわけで、あとはそれにどう責任を取るか。だから会社の若い人も、もっと仕事をおもしろがればいいと思うよ。自分が「これは絶対面白い」と思ったことは恥ずかしがらないで口にしたら、おもしろがる人がきっとでてくるから。

そのタイプは結局学生の頃から変わらないな。学生の時も、まっちゃん(シモシュ)にアイディアだけ言って先に寝ちゃうの。まっちゃんは徹夜して作っていて、起きて出来上がりを聴いて「そう、思った通り!」って。まっちゃんはそれ聞いてキレていたけど。でも僕からしたら、作曲も演奏もできるまっちゃんはすごくキラキラしてた。

お互い、50歳をすぎていろいろ転換期だと思うけど、あの頃みたいに、おもしろいから作る、作りたいから作る、って気持ちで作れたらいいよね。当たり前なんだけど、それが音楽の根源的なとこじゃない?音楽作るモチベーションなんて、友達と一緒に笑い合えるから楽しいとかですよ。

今、新しいことに踏み出せば、また60過ぎていろいろ見えてくるんじゃないかな。
俺たち、今までやってきたことってまあまあだぜって思うよ。


後日談:

さて、シモシュ不在の沖縄で思い出話をたっぷり聞いた様子を、スタジオでシモシュに報告しました。東外門さんから聞いたこんなこぼれ話も。

「そういえば、埼玉の大学にいたとき、雪が降ったのを初めて見て、まっちゃんを叩き起こしたことがあった。ほんのちょっと降っただけなんだけど、感激して。でもまっちゃんは白馬(長野県白馬村。豪雪地帯)の人だから、すげーめんどくさそうなわけ。僕がちっちゃな雪だるまを作るのを見て「恥ずかしいことするのやめて」と言っていたよ」

それにこたえるように、シモシュも東外門さんとの思い出を語っていました。

シモシュ 21歳の頃、「ハイヌーン」という彼が作ったメロディのモチーフを渡されて、曲を作ってと頼まれたことがある。「オキナワンチルダイっていう雰囲気で」って言うんだよ。意味は、風が止んで海も凪で、無風状態で湿気のある気だるい沖縄の日のことらしい。知るかよ!って思ったんだけど、自分なりに読み解いて作って、沖縄にいる彼に電話口で聞かせたの。今みたいにデータ転送なんてできないから、受話器にスピーカー当てて、「聞こえる?」って。そしたら聴き終わって「うわー、オキナワンチルダイ」って言ったんだよね。

彼に対しては、学生時代は、半分嫉妬心があったよ。あいつは発想もすごかったし、なぜか人が集まってくるんだよね。あいつにはかなわないなとどこかで思っていたからなあ。でも、今会ってもお互い何にも変わらないんだろうね。昔のまんまだと思う。なんか、くっだらない曲とか、一緒に作れたらいいよね。それも奴のセンスにはかなわないんだけどさ。

ずっと会っていなくても、学生時代の友人は特別なんだなあと、二人からの話を聞いて思いました。

学生時代の東外門さん自筆楽譜(シモシュ提供)

東外門さんは今、仕事で来年の沖縄本土復帰50周年に向けた番組企画を立ち上げながら、作曲活動では、子どものための曲も構想していると言います。
「会社にあるたくさんのテレビモニターに残酷なニュースがたくさん流れてくるの。4人の子どもを持つ親として本当に辛いなと思った。そんな時に、生まれてくる子を祝福するような曲を作れたらと思うんだよね」
肉親の戦争体験を受け止め、それを歌にして伝え「慰めたい」と願うことと、今現在困難な時代を生きる子どもたちを祝福したいと願うこと、そして、作る、伝える、という厳しさを人一倍知っていて、なお、仲間とつくることをおもしろがりたいという思い。それは一本の芯でぶれずに貫かれて、仕事も作曲も一つながりの、東外門さんの表現となっているのだと感じました。
今、なぜものをつくるのか、という原点を改めて教えていただくような時間でした。
友と笑い合うために作るような、ものづくりの原点のような創作活動から、どんな曲が生まれるのか、楽しみに待ちたいと思います。

文責:城間優子

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